「他力本願」への誤解 自分の限界を知り決断する勇気が人を変える | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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【他力本願】という言葉があります。

辞書ではこう説明しています。

(1)阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。

(2)転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。

 

たいていは(2)の意味

しかも

自分で何もせず人を頼る無責任な意味で使われています。

でも

本当は、自分の人生を懸けた真剣な行いだと言ったらどう思いますか?

 

もともとの仏の教えは

自力での修行で生まれ変わり(輪廻-りんね)の世界から抜け出すことでした。

生まれ変わらないことで生きる苦しみを繰り返さない。

これが「解脱-げだつ(涅槃-ねはん)」という絶対自由の境地です。

ここに涅槃にたどり着いた人を仏として尊ぶ信仰が生まれました。

 

その後

絶対自由の境地を体現したものとしての「仏」に対する憧れを生むようになり

自分だけではなく他の人たちも一緒に成仏する(仏になる)ことを目指す教えを説く人たちが出てきます。

 

「極楽浄土」は阿弥陀仏の住まいです。

(阿弥陀仏に限らずすべての仏は浄土をもつのです)

現在では仏の教えは「極楽浄土」に行くためのものだと思い違いしている人が多い。

実は「極楽浄土」に行くのは成仏するための手段なのです。

 

もともとの教義の上では現世では仏になることは無限に近い時間と努力が必要で

可能性からすると限りなくゼロに近いものなのです。

人々が成仏することがほとんど不可能であることを悲しんだ阿弥陀仏は

自分の浄土で修行すれば100%仏に成れるという「願」を立て

人が死ぬときにすべての人を極楽浄土に迎えようとするのです。

(これが「本願」です)

同時にこれは死の恐怖からも人を救ってくれるものです。

 

本来の「念仏」は仏を念じて(思い浮かべて)極楽浄土にいくための

マインドトレーニング(観想念仏)をいいます。

今までの修行と比べればたやすくとも

この修行も並大抵のものではなく

生活の余裕と学問がなければ行えないものでした。

 

この阿弥陀仏信仰の経典がCHINAに伝わります。

善導という僧がいました。

この僧は阿弥陀仏の経典を読み

阿弥陀仏の本願を信じて称名(=いわゆる念仏、阿弥陀仏の名を唱える)をすることだけが現実的な修行だと主張しました。

(実はこれは故意の誤読でした)

 

しかし

今まで厳しい修行を要求されてきた立場からすると

そんな都合のいいことは認められません。

多くの僧と信者は念仏は修行の一つであり念仏だけでは成仏できないと考えていました。

 

日本で念仏だけが極楽浄土にいける修行だという説を最初に唱えたのは

僧「法然」です。

法然は当時の僧では最高の学識をもった人です。

あらゆる経典を読んだ上で法然は

わたしは善導大師の言葉にだまされているのかもしれない。

でも

わたしはたとえ地獄におちてもその言葉を信じるという選択をすると宣言しました。

 

すべてを阿弥陀仏の本願に身をゆだねることを選ぶということは

都合よく救いの成果だけ求めるのではなく

自分の未来永劫すべてを懸けた行いです。

 

努力をしないのではなく

自分の力の限界を知り

(努力なしで自分の限界など分かるわけがありません)

限界を超えるために

信心にすべてを懸けるという選択が「他力本願」です。

本当の「他力本願」とは淸水の舞台から飛び降りるのと同じような勇気を必要とする行いです。

誰も未来を確信できる人間などいないわけですから。

その勇気がその人の生き方を変えるのが教えの核心です。

 

人は不安をなくすことできません。

仕事上、不安でたくさんの子が自分の力を出し切れずに終わってしまったことを見てきました。

自分を信じ切ることができなくても

信じるものがあれば自分を信じることができます。

その時は不安を忘れて挑戦することができます。

その成果がいつの間にか自分の人生への自信につながります。

 

信心(宗教)ということに限らず

不安からの自由というものがどれだけ

その人を勇気づけることができるかということです。

なかなか思うようにいかなかったわたしの職業人生ですが

わずかであってもそんなことができたと思っています。