オトナのための数学キソ20 わたしはこんな数学が好き 数学と神との関係 数学の源 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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わたしは中高生を通して数学の問題を解くのが不得手でした。

数学は決して嫌いではないというより

あこがれがあったと言っていいのですが。

なまじ

小学生のころ本来の数学とはどんなことか知ってしまったせいかもしれません。

 

問題が解けないとうよりも

その問題をなぜ解かなければならないか分からない(示されない)のに

問題を解くことは当然だから

解法を覚えなさいということがよく分かりませんでした。

 

そんなことを考えているうちに先先に進みますから

なおさら問題が解けないのは当然です。

 

大学生になってから独習しました。

その後、高校情報科の免許を取るために独習して

自分で数の概念を読み取るようになって

人に教えるための練習が出来ました。

 

受験トレーニングのために問題の解き方を教えることは必要ですが

わたしは好きな数学とは当然問題を解くことではありません。

言葉(概念)としての「数」を考えることです。

 

数学史で有名な話に

「クロネガー」が「カントール」を迫害したために

晩年、カントールが発狂する原因になったという話があります。

たいていは革新的なカントールを保守的なクロネガーを嫌ったということになっていて

クロネガーが悪者扱いを受けています。

 

でも

クロネガーは現代数論(数についての理論)の基礎をつくった人でもあるのです。

クロネガーは時代遅れの悪者と決めつけることには疑問を感じました。

 

わたしが気づいたのは

二人にとっての争点は「神」についてのことだったということです。

聖書の民にとっては「神」を無視することはできません。

 

カントールは初めて「無限集合」(つまり、無限のことです)という考え方を考え出した人です。

彼にとって「無限」とは神の姿を知ること(神という概念を数で感覚すること)だったようです。

 

それに対してクロネガーは

おそらくカントの哲学が基礎にあったと思うのですが

人智には限りがあると考えていたようです。

 

わたしは彼が神のものは神に、人の世界のことは神のせいにはせずに人がおさめるものだと考えていたと想像します。

有名な「神は整数をつくり、それ以外の数は人がつくった(架空のもの、または便宜上のもの)」という言葉をそう読み解きます。

 

学校では「負の数」「平方根」「虚数」は実在するように教わりますが

そういう考え方をした方が便利だから使っているだけで

そういうものが実在するかどうかなど議論したらものすごくめんどうなことになります。

でも

多くの数学教師はそんなところから数学を考えていませんね。

決まり切ったことを決まり切ったこととして教えているだけです。

 

実際

平面幾何学の基本になっている「ユークリッド幾何学」は仕組みとしては大変役に立つので

2000年以上無条件に真理とされてきました。

根本的な概念(公理)には証明不能なものがありましたが

たとえば、「平行線は交わらない」など

これは平行線の定義であって証明ではないのです。

現代になるまではっきりと批判されることはありませんでした。

 

それが

はっきり意識させられたのは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれる

ユークリッドの概念を否定した幾何学が成り立つという発見でした。

「平行線が交わる」世界を仮定したらどうなるか考えてみたわけです。

仮定というよりも地球上では現実に平行線は交わるのです。

 

すなわち

絶対の真理だとされてきたユークリッド幾何学が

ユークリッドの公理(概念)を認めたときに成り立つ仕組みにすぎないということを思い知らされたのです。

 

話を戻しましょう。

わたしはクロネガーが言ったのは

「数」は仮定であり

仮定はその仮定を成り立たせる概念上でしか成り立たないということだった考えます。

クロネガーにとっては神はたたえるものであっても

その姿を知るものではなかったのです。

それがカントールを認めなかった根本にあったと考えます。

もしかしたらカント-ルは神を見ようとして発狂したのかもしれません。

 

わたしは小学生のころに科学入門書を読んで感じた「数学」とは「自由」と「美」そのものでした。

世の中上手に生きるためには知らない方がいいことがあるなあというのが感想です。

(当然これは皮肉です)

 

人に教えるときには

たとえその子に教えなくても自分が数学の自由を感じ取れば

教えるための血肉になっているものだと考えます。