母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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少年犯罪の重罰化が結果として
かえって、少年の再犯率が上がるのではないかという不安を与えています。

※少年院教育、漏れる若者=「再犯」懸念の声も―法務省は対策模索
https://www.mag2.com/p/news/headline/498125

でも
少年法の改定は結果として少年法の問題点から人権を守ることになリます。

「少年審判」とは少年が非行や犯罪を行った場合に家庭裁判所で行われる手続きを言います。
少年審判は刑罰のためではなく少年保護のためという考え方から成り立っていて
裁判のように「犯罪事実(犯罪があったかどうか)」を審理するものではないのです。
少年審判は大人の裁判と違って事実審理だけで、抗弁権がありません。

つまり
自分が補導(か逮捕されて)少年審判の対象にされたら
非行(犯罪)をしていないと反論することができないのです。
 
重罪と判断されて「検察官逆送」されない限り裁判を受けることができません。
*検察官逆送・・・ 家庭裁判所の審判で刑事処分が相当であると判断されて,事件が家庭裁判所から検察官に戻されることをいう。
その場合ほとんどの少年は裁判を受けることになる。
 
少年が「非行」を行ったとされた時
事実にかかわりなく(冤罪であったとしても)警察で取り調べされた時点で
非行事実(犯行)を認めれば
検事取り調べを受け
(本来は検事の方が正式な取り調べです)
少年鑑別所に収容され心身を調査(鑑別)されます。
その後、家庭裁判所の少年審判で
非行事実に対する処分を受けることになります。
 
少年審判は裁判ではありませんから
非行事実そのものの審理はしません。
 
冤罪の場合や不服があっても現実には反論の機会はありません。
(冤罪ではなくとも事実誤認はよく起っています)

家庭裁判所が出した保護処分の決定に対してだけ不服申し立て(抗告)を行うことができます。
少年事件の場合には,抗告したとしても審判の執行力を止めることにはならないので
抗告の判断が出る前に少年が少年院などの施設に収容されてしまうことになります。
 
わたしがかかわった例から言うと
普通のお子さんでも事件に巻き込まれると簡単に加害者になります。

他の子とトラブルがあり、両方にそれなりに事情あるが、
相手の子に先に手を出してしまった。
 
その子の親が被害届を出した(もしくは告訴した。告訴の場合は捜査が義務になります)。
本人が暴行を認めれば相手と何があったかは関係なく、それまでです。
相手とこじれたときは手を出した方が100%悪いと言えないことも多いのです。
(事情によっては相手を訴えることも可能になる)
でも、これもいっさい無視されます。言われるのは
「手を出したお前が悪い」だけです。(反省が目的ですから)
先に訴えた者勝ちと言えないこともありません。

本人曰く
取り調べで「(相手が)ウソをついた」
というよりも
相手が都合が悪い所はすべて隠し通したようです。
取り調べでは話さえ聞いてもらえなかったと言っていました。

子どもは自分が悪いのは事実ですから、不満を胸に隠し、その分だけ大人に対する不信の思いが残ります。
弁護士がつかない限り(もしかしたら、ついても)、「しばいたのが悪い」でおわりです。
 
改定「少年法」で特定少年として18、19歳の非行をした少年が「検察官逆送」になることが増えれば
結果として裁判を受けることができるようになります。
*特定少年・・・ 改正少年法では18、19歳の少年を指し、情状により取り扱いが成人、少年に分けられる。
 
少年審判は刑罰のためではなく少年保護のためだとされています。
そのために少年たちが裁判(事実審理)を受けることができない
言い分を聞いてもらえない(冤罪の可能性も抱えている)のが
裁判の対象となることで犯罪事実の審理ができるようになることは大変皮肉なことです。

 

わたしは中高生のころ数学の問題を解くのが大変不得意でした。
というよりも、なぜ問題を解くのかが分かりませんでした。
受験のため、成績を上げるためというのは目的であって理由ではありません。
これは算数であっても同じことが言えるかもしれません。
(算数では計算ができないと困るよという言い方をされていたと思います)
 
実用ということから考えると
数学を実用で使うというのはかなり高いレベルの理解を必要とします。
算数でも式を立てるためには同じことが言えます。
 
それでも
算数の問題の解き方をいくら究めても数学の考え方にはなりません。
天才と呼ばれる数学者たちは子どものころから
いずれも算数ではなく数学をやっているのです。
算数がいくらできてもそれだけではパズルを解くことが上達することと同じなのです。
 
そこには「概念化」のレベルがかかわっているのです。
 
それは金勘定では間違わないのに同じ計算を計算問題で間違う子どもがいることでわかります。
目の前の数と抽象的な数とは外見は同じですが違ったものなのです。
 
数学の最も基本的な概念に負の数があります。
負の数というのはいくら計算が得意でも
自然に生まれてくる考えではありません。
実際、負の数が使われるようになる前から計算の達人はいたはずです。
 
それでも
負の数を認め自由に使いこなすまでに数千年の時間がかかりました。
 
しかし
負の数を使いこなす方法を知ることで
500年の間に人類は最先端の科学技術文明を作り上げることができました。
(負の数を手に入れた人類は平方根、虚数…と数概念を広げていきました)
 
よい学びとは具体的なものをより高いレベルでの共通の理解に高めることです。
そこで初めて個人の体験(=観念)が他の人との共通なもの(=概念)に高められます。
 
わたしは数というものを一種の言語としてとらえています。
ヒトは自分が聞きたいようにしか聞かない。
(主観での理解は誤解か誤解を含むものです)
数言語(数)の世界ではほぼそれを許さない。
だから、数学をいやがる子が多い。
また、教える方も問題が解けても数学で何を教えるかがわかっているとはかぎらない。
 
教育数学の本質は
(数学者のように数から何かを発見することを目的にするのでなければ)
数学的考えではなく、「数という言語」を使った言語訓練です。
 
自然言語(普通の言葉)でも、観念(私的思考)を概念(共通の定義)に高めることで誤解の幅を狭めることができます。
 
伝えるということは観念をコトバに託したキャッチボールをいいます。
日常生活で言葉が通じている理由は皮肉なことに言葉がいいかげんだからです。
 
それでも共通の経験がお互いの意思を読み取ります。
コトバのキャッチボールは理解ではなく了解なのです。
不都合が起きてはじめて問題になるのです。
 
「観念」とはその人の思い込み(自分勝手であろうが、より広い立場であろうが)と考えてください。
それに対して「概念」とは観念と比べて、より共通でより詳しくぶれが少なくなるように決められた考えを指します。
レベルが高い共通の議論をするためには「概念」を身につける必要があります。
そのために学びが必要なのです。
数を使った訓練は概念を身につける、使う練習のためには一番効果的です。
 
実際、人は自然に数の概念を身につけることはありません。
小さな子には抽象的な数の概念はありません。
 
子どもは自然に
「犬2頭と猫3匹がいること」から「5」という概念を導き出すことはありません。
たいてい初めは「ワンワンとニャンニャンは違うから足せない」と考えるそうです。
(とらえようによっては「動物」という上位集合の概念獲得ということもできます)
 
違ったものを数という抽象としてとらえることは訓練によってはじめて身につきます。
ある未開な社会の観察では
さまざまなものを一度、石のような共通なものに置き換えて
初めて数としてとらえることができるという報告を聞いた覚えがあります。
 
まず、
算数では数概念を手に入れることから始まって
記号を使っての計算と
数概念を一致させることに進むわけです。
 
算数・数学を単なる実用計算・手段としてとらえるなら
もっと広いはずの世界をとらえる手段を失うことになります。
 
言葉であっても(特に外国語を学ぶなら)
日常生活で必要なレベルのことを知ることと
その言葉を使っていろいろなことに使う(学ぶ)ためでは
全く違った能力・訓練を求められます。

米国のいくつかの州の学校では「進化」を教えることは拒否されています。
よく誤解されているように「禁止」されているわけではありません。

2005年に公立学校であれば「進化」を教えなかったり「創造論」を一緒に教えることは合衆国憲法修正第一条違反という米国最高裁判決がでています。
それでも多くの保護者の強硬な反対があり現実には教えることができないというのです。
そこには福音主義というキリスト教の原理主義者たちの動きがあります。
 
と言うのが普通の理解(解説)です。

「進化論」ではなくここでは正しくは「進化(事実)」というべきでしょう。
事実として「進化」は証明されていても
その理論化はまだ「仮説」であってまだ検証されていないことが多すぎます。
(わたし自身は「進化論」はサイエンスにはなれないと考えています)
だから
「進化論」と「進化事実」を区別しないと教義である「創造論」と対等の立場になってしまいます。
それこそキリスト教福音派の思う壺になるでしょう。
 
わたしには進化を認めないその意識下には「人種差別」があるのではないかというふうに思えます。
 
アパルトヘイトはかつての南アフリカ共和国で行なわれた
人種差別の考えの上になりたつ様々な差別立法を背景に出来上がった政策方針を指します。
1948年の純正国民党政権誕生によって始まった政策で
それ以前からカラード(有色人種)への差別はありましたが
国の政策として行なわれたのは意外にもそれほど古いものではありません。
 
その後
マンデラ大統領就任により政策としてのアパルトヘイトはこの1994年に完全に消滅しました。
 
『人類進化の700万年(三井誠)』を読んでいたら
「最終章 科学も人類の歩み」にこんなことが書いてあります。
 
最初の猿人化石を発見したダート博士の後継者である
南アフリカ・ヴィットウォータースランド大学のフィリップ・トバイアス名誉教授によれば
アウストラロピテクスの化石が南アフリカで発見されたときに
「人類学の記念碑となる化石が、国の誇りではなく悪魔の仕業と言われ」無視された。

さらに
アパルトヘイト政策を行なう政府は進化を認めず学校で教えることを禁止していた。
担当したラジオ科学番組では「進化」という言葉をつかわずに「発達」という言葉をつかうように強制された
と言うのです。
 
当然、そこには「白人」と「カラード」が同じ人間であることを認めたくないから
ルーツの時点から否定したいことが理由であろうということはすぐに思い浮かびます。
 
そこから考えると
米国での「進化」拒否も信仰からの理由と説明されるのが普通ですが
それだけではなく、意識下には南アフリカと同じようなことがあるような気がします。

同じようなことに
マーティン バナール氏が主張した
西洋近代が世界史、特に初期の地中海史を偽造したという疑惑があります。
(一連の『ブラック・アテナ』シリーズによる)
 
・ギリシア文明と呼ばれるものはエジプトの強い影響下で生まれたものである
・古代エジプト文明をつくったのは黒人種である   などなど

近代の人種差別的・過剰な科学主義的〈アーリア・モデル〉が史料の読み方をゆがめたという指摘です。

日本の教育では
西欧近代に科学と信仰(宗教)の対立があったとされるのが普通ですが
現実には
今でさえもかなり高名な科学者でも
自分が研究するのは神の栄光のためだと発言するのは珍しいことではありません。

サイエンス(科学)は日本教育界が勝手に思い込んでいるような
客観・中立のものではありません。
人は社会で生きるかぎり生い立ち・生活からのバイアス(先入観)から自由になることはできません。

バイアスを無視した客観を言うのではなく
バイアスを覚悟した上での公正が求められるのです。