オトナのための数学キソ37 現在の算数・数学教育の意図しない「落とし穴」 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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わたしは中高生のころ数学の問題を解くのが大変不得意でした。
というよりも、なぜ問題を解くのかが分かりませんでした。
受験のため、成績を上げるためというのは目的であって理由ではありません。
これは算数であっても同じことが言えるかもしれません。
(算数では計算ができないと困るよという言い方をされていたと思います)
 
実用ということから考えると
数学を実用で使うというのはかなり高いレベルの理解を必要とします。
算数でも式を立てるためには同じことが言えます。
 
それでも
算数の問題の解き方をいくら究めても数学の考え方にはなりません。
天才と呼ばれる数学者たちは子どものころから
いずれも算数ではなく数学をやっているのです。
算数がいくらできてもそれだけではパズルを解くことが上達することと同じなのです。
 
そこには「概念化」のレベルがかかわっているのです。
 
それは金勘定では間違わないのに同じ計算を計算問題で間違う子どもがいることでわかります。
目の前の数と抽象的な数とは外見は同じですが違ったものなのです。
 
数学の最も基本的な概念に負の数があります。
負の数というのはいくら計算が得意でも
自然に生まれてくる考えではありません。
実際、負の数が使われるようになる前から計算の達人はいたはずです。
 
それでも
負の数を認め自由に使いこなすまでに数千年の時間がかかりました。
 
しかし
負の数を使いこなす方法を知ることで
500年の間に人類は最先端の科学技術文明を作り上げることができました。
(負の数を手に入れた人類は平方根、虚数…と数概念を広げていきました)
 
よい学びとは具体的なものをより高いレベルでの共通の理解に高めることです。
そこで初めて個人の体験(=観念)が他の人との共通なもの(=概念)に高められます。
 
わたしは数というものを一種の言語としてとらえています。
ヒトは自分が聞きたいようにしか聞かない。
(主観での理解は誤解か誤解を含むものです)
数言語(数)の世界ではほぼそれを許さない。
だから、数学をいやがる子が多い。
また、教える方も問題が解けても数学で何を教えるかがわかっているとはかぎらない。
 
教育数学の本質は
(数学者のように数から何かを発見することを目的にするのでなければ)
数学的考えではなく、「数という言語」を使った言語訓練です。
 
自然言語(普通の言葉)でも、観念(私的思考)を概念(共通の定義)に高めることで誤解の幅を狭めることができます。
 
伝えるということは観念をコトバに託したキャッチボールをいいます。
日常生活で言葉が通じている理由は皮肉なことに言葉がいいかげんだからです。
 
それでも共通の経験がお互いの意思を読み取ります。
コトバのキャッチボールは理解ではなく了解なのです。
不都合が起きてはじめて問題になるのです。
 
「観念」とはその人の思い込み(自分勝手であろうが、より広い立場であろうが)と考えてください。
それに対して「概念」とは観念と比べて、より共通でより詳しくぶれが少なくなるように決められた考えを指します。
レベルが高い共通の議論をするためには「概念」を身につける必要があります。
そのために学びが必要なのです。
数を使った訓練は概念を身につける、使う練習のためには一番効果的です。
 
実際、人は自然に数の概念を身につけることはありません。
小さな子には抽象的な数の概念はありません。
 
子どもは自然に
「犬2頭と猫3匹がいること」から「5」という概念を導き出すことはありません。
たいてい初めは「ワンワンとニャンニャンは違うから足せない」と考えるそうです。
(とらえようによっては「動物」という上位集合の概念獲得ということもできます)
 
違ったものを数という抽象としてとらえることは訓練によってはじめて身につきます。
ある未開な社会の観察では
さまざまなものを一度、石のような共通なものに置き換えて
初めて数としてとらえることができるという報告を聞いた覚えがあります。
 
まず、
算数では数概念を手に入れることから始まって
記号を使っての計算と
数概念を一致させることに進むわけです。
 
算数・数学を単なる実用計算・手段としてとらえるなら
もっと広いはずの世界をとらえる手段を失うことになります。
 
言葉であっても(特に外国語を学ぶなら)
日常生活で必要なレベルのことを知ることと
その言葉を使っていろいろなことに使う(学ぶ)ためでは
全く違った能力・訓練を求められます。