私はそんな程度の人間なのである。
「色々、先の事は考えて居るよ!」
そう呟きながら私は鞄から一冊の貯金通帳を取り出し妻に見せた。
その通帳の中身を見た瞬間に妻の顔色が変わった・・
「あ・・あんた!何でこんなにお金を持っているのよ!」
もの凄い喜びの顔と何か悪い事でもしてるんじゃと言う不安げな顔・・
妻は同時に二つの顔を私に見せながら私に罵声を上げた。
「いや・・ベッキーと言う名の作家を君は知っているか?」
まったく本など読まない妻がそんな作家を知っている訳が無かった。
「知らないけど・・それとあなたと何か関係があるの?」
「い・・いや・・それが僕なんだ!僕はベッキーと言う名前で4年ほど本を書いていたんだ!」
そんな言葉を妻が、はいそうですか!と簡単に信じる訳も無い。
仕方なく私は一冊の本を鞄から取り出す。
私の処女作の「陽炎」である。そのハードカバーの裏に作者プロフィールなんて欄があり
そこに意味無くタバコを一本、咥えている私の写真が乗っていた。
「ち・・ちょっと!待ってよ!ちょっと・・」
妻は少しだけ焦りながら読書好きの友人に電話を入れる・・
「ねぇ!ちょっと、うちに旦那!作家だって知っていた??」
そんな突拍子も無い言葉に相手の声が受話器から漏れて聞こえる・・
「そうでしょ!ベッキーでしょ!なんか似てると思ってたのよ!誠さんに・・
でもあんたが、何も言わないからさ~人違いだと思っていたの!
やっぱり!そうなのね!ベッキーなのね!なんか感激よ!
でも・・あんた、何で今頃、言い出したのよ?」
そんな彼女の言葉に妻は不機嫌そうに言った。
「今・・知ったからよ!旦那が小説家だって・・」と
それから妻は私に聞こえないようなヒソヒソ声で私の可能性の確認を始める。
私が妻に仕事を辞めると言って2週間後に結論が出たらしく、晴れて私の退職が許可されたのであった。
それを期に住み慣れた静岡を後にし、私達家族は東京に引越しをする事になる。
以前から私が仕事を理由に拒み続けて来た妻の親と同居をする為である。
私は自由と引き換えに不自由を抱え込んでしまった気になる。
いったいどちらが幸せだったのか?正直、今でも解らない。一つだけ救われたのは
「仕事場」と言う名の自分の世界を手に居いれる事に成功したくらいだろうか??
そんなこんなで・・私の小説家としての人生が始まった。
ある意味、こんな世界に身を置く事になったのは必然ではなく偶然なのかもしれない・・