コロナや私の入院手術など、諸事情で延び延びになっていた伯父伯母の納骨が終わった。
伯父が亡くなったのは2011年3月16日なので、代々の先祖が眠る曹洞宗の寺の墓に収めたが、伯父伯母と伯父の母親は「ハリストス正教会」の信徒であり、歪な状態である。
一昨年、伯母が亡くなった後、彼女の遺骨は我が家のリビングに安置していた。
丁度その頃、教会から「納骨堂を新設する」旨の案内が届いていた。
折しもコロナが猖獗を繰り返していた時期で、納骨堂建設もなかなか思うように進んでいない状況であったため、考える時間は多くあった。
日本は現在は遺体は火葬されるが、世界に目を向けると宗教によってさまざまな差異があり、キリスト教系は土葬である。
が、この狭い国土の日本では火葬も止む無しと、近代では合理的に判断しているという。
また、日本では「遺骨」に大変な重きを置くが、外国だと「遺品」を大切に扱うという。
伯父の墓から分骨・・・はなんか違うなと思った。
しかし、伯母一人だけ私の考えで別なところに収めるのも違う気がした。
伯父の遺品を伯母の遺骨に寄り添わせ、私との写真には裏にその写真の年代やエピソードを少しメモ書きし、一緒に納めた。
納骨堂は、その一角を50年間使用でき、その後は「使用の延長」か「合葬」を選ぶ。
一角の権利金も、毎年の管理料もここに金額は記さぬが、「遺族の負担にはならない」ほど些細なものであった。最初に50年分の管理料をまとめて払うにしても、である。
50年後、私はもう生きていないと思うし、子供たち以下にその責任を置いていく気もない。
パニヒダの祈りをいつも捧げられ、50年も後には伯父も伯母も、死の安穏とした静寂の中に溶け込んでいると信じたい。
コロナも未だ感染者は出ているが、世の中は以前のように人の動きが戻った。
教会と連絡を取り司祭の都合を聞く。伯父の誕生日が5月末なので、5月中に納骨式は可能かと伺うと、連休中5月3日から6日までは対応できますとの返事だった。土日は大概管轄区の教会や信者さんを巡っているので、ホッとした。
早速、息子と娘の都合を聞くと、息子は「5日以外なら大丈夫」娘は例年どおり「連休中はずっと仕事で、今現在前倒しで休みを取ってしまって、今大阪に来てる」
などという返事だった。
「納骨の時は久しぶりに、母と兄とご飯でもと思っていたけど残念でならない」
とも言ってきた。
私の夫はずっと超多忙で、休みこそさらに忙しく、彼は彼で昨年亡くなった父親がいた実家へ片付けに行かねばならない。
「5月4日に納骨します」
とそれぞれに話し、今回は息子夫婦が一緒に来てくれることになった。
娘とは、後日、近いうちに案内がてら同行ということになった。
当日は良い天気だった。この連休は、好天と雨天とメリハリがあり、だらだら出かけたりして過ごすことなく、うまく休みを取りつつ過ごせたように思う。
入院の時は夫と娘が動いてくれたので、息子夫婦と連れ立って出かけるのは、とても久しぶりである。
8時過ぎに息子の家に行った。
ルートからすると彼らが私の家に寄るほうが無駄がないのだが、私は伯父伯母が暮らしていた場所に最後に連れて行きたかった。
ほんの何年かのうちに、近所でも古い家屋が取り壊されたり新しくなっていたりして、様相が変わってしまったが、私には当時のままの風景ばかりがありありと浮かぶのであった。
コロナでガマンをしていたであろう多くの人たちや車が、実に多く見られた。
盛岡市内に入ると、右車線が渋滞している。
「動物園へ曲がるところまでだろうな」
と息子が言っていたがまさしくその通りで、反対方向からの左車線もどこが最後尾かと思うほど渋滞していた。街中を通った方が早いかと思ったが、そこを抜けるとスムーズで、予定時刻前に教会に到着した。
まず息子夫婦をパチリ。Yちゃんは細くて綺麗でずっと変わらないが、息子は太ったり痩せたり忙しいようである。ガタイが良くなっているのは、「物凄く鍛えている」からだそうで、腕など夫と変わらないほどがっちりしていた。口には出さなかったが「あらら・・・息子も年を取るものなのね」と思った(笑)。
聖堂はとっくに扉が開いていて、灯りも蝋燭も灯されている。
写真や花など安置し、またパチリ。子供らと写真を撮るなんて機会はめっきり減ったので、嬉しがって撮ったり撮られたりする。
やがて祈りが始まった。
ひんやりとした聖堂に、よく通る司祭の祈りの声がきらめくように響く。
その間は奥の扉も開かれていて、この写真には写っていないが沢山の蝋燭が美しいガラス器のなかで輝いている。
祈りが終わり、納骨堂へと移動した。外には数名の洗礼名と、名前が刻まれてあった。伯父伯母の名も刻まれていた。
納骨堂の中に骨壺は思いのほか少なくて意外だったが、
「納骨は皆さんゆっくりとされます。これまで納めていたお墓から骨を移したりというのもありますが、近くにしばらく置きたいのでしょう」
とのことだった。
そのため、好きな場所を選べたので、扉を開けた際岩手山が右手に見える場所にした
さすがにこみ上げるものは大きくあったが、低めの入り口の上に頭をぶつけて正気に戻ったのは私らしいと言うべきか。
一通りのことを終え、最後に司祭様とパチリ。
今度からはここに会いに来るのだ。
これまでの謝意を伝え、教会を後にした。
「昼飯食べていこう」
と言われたが、付いていくだけで私は食欲は失せていた。私に合わせて
「美味しいお寿司屋さん」
に連れて行ってもらった。
「おかあさん・・・」
と言ってYちゃんが私のお腹を触って
「肉がない!!!」
と笑った。
「そうよ、苦労して痩せたのよ、維持しなきゃ!」
と言いつつ、結局ある程度食べて、その後街を少し歩きたいから、電車で戻るという息子たちを駅前で降ろし、私は観光客が嬉しそうに歩いている街中を抜け、5月の薫風の中を走って帰宅した。
毎日伯父伯母が夢に出てきたが、この日以来、出てこなくなった。
「バイバイ、パパママ」
しばしの別れを、初めて実感したのであった。