アイヌモシリ〜内と外の視点で描き出すコミュニティのリアル【映画レビュー】 | おたるつ

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モノホンのおたくにジャンルは関係ねえはずだ!
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少し前、点けっぱなしのテレビでアイヌのドキュメント番組を見た。

どこかの大学が持ち去ったアイヌの遺骨を返還するというもので、なかなかショッキングだった。

心を掴まれたのは“音”。

遺骨を持ってきた関係者に抗議の声を出すのだけど、聞いたことがない低い不気味な響き。

これが人間の口から出る音なのかと釘付けになった。

それ以来、なんとなくアイヌ関連の番組や特集を興味を持って見ている。

「アイヌモシリ」もそういった番組で紹介されていて、ぜひ見たいと思っていた作品。

10月に渋谷ユーロスペースで公開し、やっと愛知県の田舎町でも上映がかなって初日に足を運んできた。

※アイヌモシリの正式表記はリが小文字。

 

 

【アイヌモシリ】

監督・脚本:福永壮志

プロデューサー:エリック・ニアリ

キャスト

カント=下倉幹人、デボ=秋辺デボ、エミ=下倉絵美、岡田=リリー・フランキー

 

〈ストーリー〉

北海道阿寒湖ちかくにあるアイヌ・コタンと呼ばれる集落で生まれ育ったカントは、父の死からアイヌの文化へ距離を置き、中学卒業後は集落を離れるつもりでいた。

父の友人で集落の中心人物・デボはカントを気にかけ、カントはデボとの交流を通してアイヌの精神に触れ、子熊の世話を任される。

一方、長く行われていなかった熊を殺しておくる儀式「イオマンテ」を行う計画が進んでいた。

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主人公の少年・カントを演じるのは、実際にアイヌの血を引く下倉幹人くんで演技は初。

母役も実際の母親でミュージシャンの下倉絵美さん、作中で最も印象的なルックの持ち主・デボさんも

本人役での出演となる。

その他も実際に生活を営むアイヌの人たちに演技をしてもらうという手法で、かなりドキュメンタリーちっくな映画となっている。

リリー・フランキーが出てきて初めて「あ、これ脚本あるやつだったわ」と気づかされるフィクションライン。

そのため、演技に少し違和感があるのにとんでもなくリアルな映像世界が実現している。

この「本当にアイヌの人」という説得力がそのまま映像の力となっていて、こう、感じたそのまま言っていいのかセンシティブなところではあるのだけど

顔の造形が私と違うわ…と、炎や雪景色に美しく照らし出された人々と、やはり私は民族として違うのだなと実感した。

 

ざっくり雑に言うと「少年がいろいろあって顔つきがちょっと大人に変わる話」なのだが、本当に顔つきが変わる。

これたぶん役者じゃないから出せるものすごく尊いやつで、どんなセリフを言うよりただただ説得力がある。

本作をフェイクドキュメンタリー仕立てにしなかったの絶対正解だし成功だと思う。

カントくんが映画を通して向かい合ったものの真実味が、フィクション映画だからこそかたちあるメッセージになったというか。

ドキュメンタリーだったら含むものがもっと多くなって、こうも真っ直ぐに1本の矢になって人の心を刺せないんじゃないかな。

 

 

私がアイヌに惹かれた音に関しても、本作は大当たり。

伝統的な民族楽器として提示される他、バンド音楽にも用いられていてライブのシーンがかなりかっこいい。

カントくんもバンドを組んでいるのだけど、さすがミュージシャンの息子だけあって歌唱シーンが抜群。

それまでフニャフニャしたとこもある普通の少年だったので腰が抜けた。

ちょっとカントくんのやってみたい音楽しっかり聴いてみたいんですけど!? となった。

 

いわゆる「アイヌの問題」が注目されがちではある。

実際、観光客が無邪気に「日本語お上手ですね」と声を掛けるシーンにドキリとしたし、「たくさん勉強したので!」と慣れた笑顔で返すさまに胸がざわついた。

そうか、不理解とか差別とか、つーか知らないってこうゆうことなんだ。

カントくんが「アイヌのことばかりやらされる」とぼやくセリフや、般若心経を唱えるシーン、カタカナで書かれたアイヌ語を見ながら行われる儀式、老婆が口ずさむ歌ー…。

随所に“現代のアイヌ”が抱える難しいことを伝えている。

 

 

しかし、この映画を“アイヌの映画”でおさめるのはまた違うかなと思っていて、それは福永壮志監督の経歴にある。

福永監督は本作が長編2作目となるが、活動拠点はアメリカにある。

初長編「リベリアの白い血」は、リベリアのゴム農園で過酷な労働にあえぐ黒人男性がアメリカへ渡る物語。

気になって調べると、アマゾンプライムで配信されていたので「アイヌ〜」鑑賞後、その日のうちに見た。

「アイヌ〜」より映画らしい質感ではあるが、見ているこちらが焦げそうなほどヒリヒリとした現実、やるせなさのリアリティーは通じるものがあった。

アメリカでは監督自身も外から来た人間であり、「リベリアの白い血」もまたコミュニティを捨てた“外側の者”の話。

やはり。コミュニティとアイデンティティに深いまなざしを感じる。

 

コミュニティの内側と外側。そしてアイデンティティ。

2作とも同じルーツを持った人々が共に暮らし、歌う描写がある。

その人らにとっては普通のことだろうけど、聞き馴染みのない歌や仕草は鑑賞者で外側の人間の私には少し奇異に映る。

この、何か見えないものが確かにありますよ、という感じ。

ここにいて、そこにいて、でも違うんですよ、という感じ。

違和感があぶり出される感覚にゾクゾクした。

 

それはアメリカに渡った黒人男性だけでなく、アイヌ民族の血をひく少年だけでなく

属することで見えなくなる何かや、属さないことで感じる孤独を誰しもに語りかけるものだなと思った。

 

なんか真面目になってしまった。

マンガ原作のとかアニメ映画とか、もっとふざけてノリノリで書いているのでよかったら探してください。