臨床の宗教者は、お相手が、「死という暗闇へ降りる際の光」たれ、という。
またある人は、
お相手が、ご自分の人生を、死に臨んで深く振り返る、その抜き差しならない人生の実相を証言する「目撃者」たれ、とも言う。
またある者は、
お相手の遣り切れない思いや、苦にあっても、どんな状況にあっても、それでもなお人生の希望を語る、そういう様々な感情を、ひたすらぶつけていただく、「感情のサンドバッグ」でありたいなあ、と夢を語っている。
もちろん、死にゆく人のお側だけが臨床ではないから。
では、その宗教者が病気を抱えていたら…?
答えは分かりきっている。
病気であることによって、
死への崇高な道往きを遮らない。
人生の高貴な証言を遮らない。
感情の繊細な表出を遮らない。
つまり、こちらの事情を掲げ、
お相手の邪魔をしてはいけない。
当たり前なのだが、
人間はどうしても、
自らに経験があると、
錯覚してしまいがちだ。
「私も病んでます」
または、
「私も病気の経験があります」
「私も死別体験があります」
というのは、
現場では、あらゆる差し障りでしかない。
ただし、死に直面する者の眼差しは、
ときに、深いかもしれない。
病んだからこそ、これらの原則を
理屈抜きで実感できるかもしれない。
それに、人生は生老病死。
誰もが等しく四苦八苦。
きょう、誰かを支えた者が明日には倒れ、誰かに支えられ、支えられながら、自分や他者の苦を踏み越え、誰かの踏み台になり、明日へ進むのだから。
新入学、新しい職場、仕事…。
新しい世界が始まる、そんな季節。
でも、じつは貴方が新しい世界に入るのではない。
貴方が、あなたの新しい世界を作るのだ。それは、一人ひとりが格闘すること。
でも、孤独ではない。
死者も生者も神も仏も、
たくさんの存在がきっと観ているから。
私も貴方の味方だよ。
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この世には人間には答えの出せないことのほうが多いのだろう。
病気になり、布団から起き上がるだけで
20分ももがいている。
腫れ上がった手指は、ペットボトルも開けられない。
四肢の痛みは耐え難く、痛み止めの錠剤や
注射に効果はない。
寝ていても痛い。当然、痛みで何度も起きる。
こんな状態が半年以上つづいている。
さらに、声帯にも潰瘍とポリープがある。
声が出せない。
なぜ、こんなに苦しまねばならないのだろうか。
神仏に問う。
答えはない。
生活の糧を得ることも難しい。
様々な治療費もかさむ。
焦る。逆に仕事が入ると、
体が保つか、不安がある。
しかし、
この痛みには意味があると思う。
神仏からのメッセージ。
そう思う。
病床にある方々への関わりというものを、
お諭しくださっているのではないだろうか。
人間は、人間として生きているだけで
奇跡だ。いまは、心からそう思う。
たとえば、人間を構成する物質を集めても、そこに命は生まれない。
これがすでに奇跡だ。
有難いのです。
この時期、
世間では「忘れるな」という言葉が充満する。
でも、辛い思い出は、
忘れてもいいんだよ。
忘れることで、
今を生きられることもあるから。
そもそも、
「忘れるな」なんて、
忘れたくても忘れられない人たちには、
無用のことば。
当事者は、忘れられない。
この時期、
世間では「祈り」という言葉が充満する。
でも、この時期だけ祈るのは、
第三者。
これまで、祈り続けて生きてきた人たちには、
無用のことば。
日々の暮らしに「節目」なんて存在しない。


