調子のよき日は、
病気であることを忘れる。
さらに、
病気で苦しんでいることは夢で、
目が覚めたら、
健康なのではないか、という、
儚いユメを夢に見る。
家族との取るに足らない日常が、
続くのではないか、と夢想する。
もちろん、
そんな妄想は現実にはならない。
涙をたたえる、
病者の妄想を笑うなかれ。



臨床の宗教者は、お相手が、「死という暗闇へ降りる際の光」たれ、という。


またある人は、

お相手が、ご自分の人生を、死に臨んで深く振り返る、その抜き差しならない人生の実相を証言する「目撃者」たれ、とも言う。


またある者は、

お相手の遣り切れない思いや、苦にあっても、どんな状況にあっても、それでもなお人生の希望を語る、そういう様々な感情を、ひたすらぶつけていただく、「感情のサンドバッグ」でありたいなあ、と夢を語っている。


もちろん、死にゆく人のお側だけが臨床ではないから。


では、その宗教者が病気を抱えていたら…?


答えは分かりきっている。


病気であることによって、


死への崇高な道往きを遮らない。

人生の高貴な証言を遮らない。

感情の繊細な表出を遮らない。


つまり、こちらの事情を掲げ、

お相手の邪魔をしてはいけない。

当たり前なのだが、

人間はどうしても、

自らに経験があると、

錯覚してしまいがちだ。


「私も病んでます」

または、

「私も病気の経験があります」

「私も死別体験があります」

というのは、

現場では、あらゆる差し障りでしかない。


ただし、死に直面する者の眼差しは、

ときに、深いかもしれない。

病んだからこそ、これらの原則を

理屈抜きで実感できるかもしれない。


それに、人生は生老病死。

誰もが等しく四苦八苦。

きょう、誰かを支えた者が明日には倒れ、誰かに支えられ、支えられながら、自分や他者の苦を踏み越え、誰かの踏み台になり、明日へ進むのだから。

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新入学、新しい職場、仕事

新しい世界が始まる、そんな季節。

でも、じつは貴方が新しい世界に入るのではない。

貴方が、あなたの新しい世界を作るのだ。それは、一人ひとりが格闘すること。

でも、孤独ではない。

死者も生者も神も仏も、

たくさんの存在がきっと観ているから。

私も貴方の味方だよ。


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この世には人間には答えの出せないことのほうが多いのだろう。


病気になり、布団から起き上がるだけで

20分ももがいている。

腫れ上がった手指は、ペットボトルも開けられない。

四肢の痛みは耐え難く、痛み止めの錠剤や

注射に効果はない。

寝ていても痛い。当然、痛みで何度も起きる。

こんな状態が半年以上つづいている。


さらに、声帯にも潰瘍とポリープがある。

声が出せない。


なぜ、こんなに苦しまねばならないのだろうか。

神仏に問う。

答えはない。


生活の糧を得ることも難しい。

様々な治療費もかさむ。


焦る。逆に仕事が入ると、

体が保つか、不安がある。


しかし、

この痛みには意味があると思う。


神仏からのメッセージ。


そう思う。


病床にある方々への関わりというものを、

お諭しくださっているのではないだろうか。


人間は、人間として生きているだけで

奇跡だ。いまは、心からそう思う。


たとえば、人間を構成する物質を集めても、そこに命は生まれない。


これがすでに奇跡だ。


有難いのです。


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この時期、

世間では「忘れるな」という言葉が充満する。

でも、辛い思い出は、

忘れてもいいんだよ。

 

忘れることで、

今を生きられることもあるから。

 

そもそも、

「忘れるな」なんて、

忘れたくても忘れられない人たちには、

無用のことば。

当事者は、忘れられない。

 

この時期、

世間では「祈り」という言葉が充満する。

でも、この時期だけ祈るのは、

第三者。

 

これまで、祈り続けて生きてきた人たちには、

無用のことば。

日々の暮らしに「節目」なんて存在しない。