「こっちが助けて欲しいくらいだよ」
そんな言葉が頭に浮かんだ。
それは、思い上がっている証拠だ。
自分と他者を分けて、
私が、可哀想な人を助ける、いや、助けてあげる、
などと内心で思い上がっている証拠。
「可哀想」だから助けるのか。
助ける余暇とカネがあるから助けるのか。
思い上がりも甚だしい。
私は、社会人として、職業人として、
父親として、夫として、
なすべきことをせずに、
家族に甘え、好き勝手にやっている。
もしもそれが趣味のチャリティーならば、
いますぐやめたほうがいい。
自と他を分けない。
同じだからこそ何かをさせていただける。
苦しいから、こっちが助けて欲しいくらいだ、
なんて思ってはいけない。
苦しみのすべては、私の体と口と心から出たもの。
苦しみのすべては、愚鈍な私を徹底して鍛えるもの。
よし。よく気づいた。私は私を許す。
健全で健康な人が不健全で不健康な人に同情していると、
同化するか、興味がなくなると去っていく。
人間の本質としておなじものではあるが、
それぞれに魂の個性は違ったもの同士が、
そっと、そばにいる。
そういう温かい空間には、同情もなければ、同化もない。
「世のため人のために」というのもいいし、
否定はしない(する権利もない)。
「支援者」が「要支援者」と出逢わない支援のかたちもあるだろう。
しかし、ある意味、それは闇鍋のようなもの。
いったい誰が誰のそばにいるのだろう。
この一点を、どうしても考えてしまう。



