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龍って干支の中で唯一、空想上の生き物ですよね
龍!にちなんで・・・
埼玉県秩父にある三峯神社のお写真から
限定の方で、動画をあげます。折角の辰年なので。後ほど・・
年末の事。
まず・・・・我が家の我が家の近くにお寺がありまして。
その住職は知り合いですが、息子さんが跡を継ぐのですが
ここ数年、除夜の鐘の音色が超面白くて、いつも笑えます。
誰がついているのか わかる。
ゴイーンって聞こえると、家族中で(笑)が起きます。
「これって、きっと〇〇くんだよね?」
「うん、きっと」
どう違うのかって言うと「自己主張が強い」
でも、憎めない真っ直ぐさ。
音はどんなにシンプルなだけに、その人となりを伝えますね。
だから自分は音を聞いた方がその人の性格が手にとるようにわかる。
たとえ、お寺の鐘でも、です。
先月出した限定の内容でちょっと書いた言葉。
人は運命をただ受動するだけでなく、必死に試行錯誤して行くのです。
その中で上手くいかなくても思いっきり後悔しても、
心に刻み、また先へ進む。
生きている限り最善を尽くして模索していく。
結果思うようにいかず、失敗したとしてもそれもいいじゃない?
やろうとしたこと、逃げずに向かったこと、自分に嘘を付かないこと。
人から見ての評価など、何の意味も成さない。
自分がどう、在りたいかにこだわれ。
運命だから?占いで出たから?
そんなもの要らない。要らないんですよ。
信じてしまい、自分に変な暗示をかけたらいけない。
思考したことが未来になるのです。
私たちが頭で思い描くことは
自分で、感じるより遥かにすごいもので
思考することは、実現していく強さを持っていると最近感じます。
その裏付けをしたい、いつか。
運命・・・今日はその言葉で
かなりのベストセラーになったので
既にお読みになった方も多いと思いますが改めて。
「運命とは何か」について書かれたほんの一節を紹介させていただきます。
「教養を磨く」(光文社新書)より 田坂広志 著
※できるだけ抜粋そのまま記載します。
我々の人生にそもそも運命など存在するのだろうか?
人生は、予め、運命によって定まっているのか、
それとも、運命など存在しないのか。
誰もが一度は考えたことのある問いであるだろう。
巨匠デビッド・リーン監督(これ超絶長かったよ〜見たけど)
1962年に制作された「アラビアのロレンス」の一場面
英雄ロレンスがアラビア兵を率い灼熱の砂漠を進軍する場面で、
一人取り残された兵士を助けに単身向かう彼に、年老いた兵士は言う。
「彼が死ぬことは、運命だ。
そのことコーランに既に書かれている。」
(It is written)
しかし、その言葉に耳を貸さず救出に向かう。
ロレンスは極限の状況の中で彼を救い出すことに成功する。
無事に戻ってきたロレンスは倒れ込む寸前に静かに、しかし力強く語る。
「何も書かれてはいない。」(Nothing is written!)
この映画で最も深い感動を与えるシーンである。
このロレンスの言葉は観客に
「未来は決まっていない。運命など存在しない」
と言う思いを湧き上がらせる。
(この後半またその折角救った兵士が命を落とす場面もあるがここでは割愛!)
我々は希望を抱いて未来を見つめるとき、人生に対して肯定的であればあるほど、
「未来は決まっていない、運命など存在しない、自らの力で切り開く」
と言う思いを抱く。
しかし、一方で既に起こってしまった過去の出来事を、悔いを抱いて見つめるとき、
それが受け入れ難い苦痛なものであればあるほど
「あの出来事は自分の人生に与えられた運命であったのか」と言う思いを抱く。
それは人類の長い歴史の中で、古今東西多くの物語や文学において語られてきた
「運命を受け容れる」と言う人間の姿に他ならない。
ではこの「運命を受け入れる」
と言う言葉の真意は何なのか?
それは決して
「諦めて仕方なく認める」と言う否定的な意味ではない。
かつて、第二次世界大戦において、
ナチスの強制収容所に送られ、
家族を殺され、
自らも死の淵から奇跡的に生還した
実存主義心理学者ヴィクトール・フランクル。
彼が、その過酷な人生を振り返り、
なお語った言葉がその真意を教えてくれる。
「人生にイエスと言う」
いかに逆境に満ちた人生が与えられようとも
いかに苦労の多い人生が与えられようとも
それでも、それは、ただ一度限りの、
かけがえの無い 自分の人生。
そう思い定め、その人生を慈しみ
与えられた逆境と苦労を
魂の成長の糧として歩むとき
「運命」と言う言葉は、いつか
「天命」と言う言葉に変わっていくのだろう
実体験された人の言葉の 何という重いことでしょう。
言葉が刺さる、と我々が感じるのは
その人がどこまで深くその言葉を感じ取っているか、ではないでしょうか?
どんなにいい言葉でも小手先の
どっかの誰かの受け売りは すぐわかる
伝わらないから。安っぽいから。
フランクルの言葉は
自分の実体験として掴み取ったその信念
誰かを言葉巧みに扇動しようとか、
偉いとか凄いとか思われたいわけじゃない。
その自分の言葉を、きっと自分が一番信じているからこそ。
・・・いかがでしたか?何か
新しい何かを感じるきっかけになってくれれば幸いです。
次回は
般若心経の読み返ししたものを少し出させていただきます。
私が音楽が好きな理由は、音楽は言葉を超えたもの
言葉では言い尽くせないものを表現できるから
般若心経も
見えないもの、言葉や形で証明できないけれど
必ずそこにあるもの、必ずあると感じられるものを 空 と呼ぶ
そこに惹かれます。
波動も感情も目に見えません、それでも確かにあるのです。
証明することも、
見せることもできないけど
それをちゃんと感じ取り理解していた古代インドの人
凄〜い・・・。
※ちょっと追加で小噺(まだ書くの?)
今年の御神籤を引いて
歌はとても良かったのです
「春風に 池の氷もとけはてて、のどけき花の陰ぞ映れる」
その裏っ!
・・・・・前置きの後コレ!
色を慎み
(←爆笑、限定の皆様心辺りは?・・ってみんなを巻き添えにする
)
常に思いやりの心深く人を慈しみ、社会に尽くし、
地上に平和の高天原を現すべく世界作り固めのお役目大事と日々努める事。
それが誠の教えである。
学問・・・・雑念が多すぎる!勉学せよ!
←はい、はい、そうですね!いちいち、ごもっとも。
言葉としては慈しみ、という単語が数回入っているもので印象的でした。
高天原、など初めて見ましたわ。へーってなっちゃいました。
コレからさらに自分軸、について深めていきます!
では、最後までお読み下さってありがとうございました。