「足利将軍、戦国を駆ける!(後期)」京都文化博物館 | 死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る

死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る

2023年12月現在の国宝の総数1,137件。そのうち、美術工芸品906件。これをすべて肉眼で見ようという計画です。関西中心の情報をお届けします。


へ行ってきました(^_^)/
京都文化博物館では、総合展示で「足利将軍、戦国を駆ける! 
会期ギリギリでしたが、後期も訪問しましたよ〜


を読んどいてもらった方がわかり易いかなー?




展示されている国宝は、東寺百合文書の1件のみ。

歴代の室町将軍にスポットを当てた企画で、有名どころの初代 足利尊氏や3代 足利義満といった、室町初期の将軍ではありません。
かと言って、13代義輝(よしてる)や最後の将軍 義昭(よしあき)といった、末期の悲劇の将軍たちでもありません……


ピックアップされているのは、足利義稙(よしたね)、足利義維(よしつな)、足利義晴(よしはる)といった、聞いたことの無いようなマイナーな将軍ばかり(^_^;)
時代的には、応仁の乱以降、室町幕府崩壊に向かって進む中、時代に翻弄される彼らが、右往左往している様を、国宝をはじめとする文書類で炙り出していく、という展示構成でした。

こんな企画、誰が喜ぶねん?という、変態企画です。

と、前回 と同じ事を書いてもしょうがないので、早速レポートします(^_^)/



展示されている国宝は、

・国宝 東寺百合文書より

の、1件12点です。

では、レポートします。





・国宝 東寺百合文書

京都学・歴彩館所有の国宝。奈良時代〜江戸時代初期にかけて、東寺に伝わった文書類で、24,617点もある膨大なアーカイブです。

内容としては主に、東寺がかかわった裁判記録や、時々の政権が発出した公文書です。
東寺が、時々の政権や権力者に翻弄される様子が、これら文書からうかがえます。

1点ずつ見ていきましょう。



"廿一口方"は東寺の運営組織のひとつで、"評定"は会議、"引付"は議事録のこと。
縦型の冊子形式で、永正2年6月3日付けのページを展示していました。
足利義澄から「疫病が蔓延っているので、祈祷して欲しい」との依頼がきたため、祈祷の内容をどうするか話し合ったことが記載されているようです。




1枚紙の、回覧文書です。
前程の"廿一口方評定引付"にあるように、足利義澄の依頼を受け、東寺での"祈祷"の実施が決まりました。
担当になった僧侶へ、回覧しています。いつ誰が祈祷するか、日付と名前が書いてあり、名前の下にある「奉」がOKサインです。




"廿一口方"は1年毎に輪番で、持ち回り制だったようです。
翌年の担当が決まれば、引き継ぎをします。その引き継ぎ品のリスト。重要文書の入った箱や、門の鍵などがリストアップされています。




一枚ものの、"折り紙"です。
横置きの1枚紙を、真ん中で折って、上側に文書を書いています。
"折り紙"は、上の者が下の者に対して出す文書の書き方です。

山城国守護(今の知事にあたる)伊勢貞陸が、守護代(今の副知事にあたる)に、東寺領から年貢を徴収しないよう命じた文書。
東寺領の領民は、東寺に年貢を納めます。にもかかわらず、幕府が東寺領から年貢を巻き上げられると、領民も東寺も困るので、東寺が幕府に泣きついて発行させたのでしょう(^_^;)

"連署""奉書"の、"連署"とは奉行人(幕府の管領)2人のサインが入ってるって意味。奉行人2人の証明付きってことです。保証人的な感じですかね〜
ここでは、(横山)重国と(三上)員光が、花押を添えて署名しています。
"奉書"は、"将軍様のご意志を伝える"って形式を採った文書です。「将軍の意志を賜った山城国守護 伊勢貞陸が、守護代に伝えますよ〜」って言ってます。




こちらも、一枚ものの"折り紙"です。
先の文書を受け、山城国紀伊郡代の蜷川親俊が、東寺領の百姓に対して出した「年貢は東寺に納めれば良いですよ」との文書。上意下達が機能していたようです。




"禁制(きんぜい)"とは、不法行為を禁じる制札。
「東寺に対して、乱暴狼藉を働かないように!」と、東寺を庇護する文書です。
足利義稙が上洛する直前に、発行されています。その後、足利義稙は義澄を破り、将軍に返り咲くのです。。





"大内義興(よしあき)"は、足利義稙を室町10代将軍に返り咲かせた立役者。京を追われていた義稙は、大内義興を頼り、義興もそれに応えて、山口から義稙をサポートしながら上洛を果たしました。
↑キービジュアルにもなっている、この人物です(^_^)
その功績から、山城国の守護(今で言う知事)を拝命し、足利義稙とともに、京都の統治に乗り出しました。

その山城国守護 大内義興が、発給した文書。
「東寺に対して、乱暴狼藉を働かないように!」と、東寺を庇護しています。おそらくこれも、東寺が働きかけて発給させたのでしょう。

大内義興の重臣 紀伊守(神代貞統)、左衛門尉(杉興宣)、中務少輔(陶興房)が、花押を添え連判しています。

足利義稙が、前将軍の足利義澄を破った直後に発給されています。
さすがは東寺!鼻が利くというか、身の振り方が早いですね~




一枚ものの"文書"と"封紙"を、巻子装にしています。

足利義維vs足利義晴で次期将軍の座を争っていた頃の文書。

"御教書"は、先の"連署奉書"よりも格上の文書になります。将軍様の直接の命令、だから保証人的な"連判"も必要ありません。"御判"は、この場合、足利義晴の"花押"を指します。
足利義維(よしつな)派から、京都を奪回した義晴でしたが、反攻を受け防戦に必死でした。そこで、東寺に敵の殲滅を祈祷するよう命じたのが、この文書です。
しかしながら義晴は、祈祷の甲斐なく近江坂本へ落ちのびることになります(^_^;)
義晴の"花押"が、実にみごとな文書です。





1枚ものの折り紙です。
京を追われた足利義晴が、再び都に戻れるよう、逃げ延びた近江から、東寺に祈祷を依頼しています。
冒頭「御入洛御祈祷事」とあるので、それがわかります。
奉行人の連判のある"連署奉書"なので、先の"御教書"より格下。
今回の祈祷は効果があったようで、この4年後義晴は帰京が叶い、12代将軍となりました(^_^)





1枚ものの折り紙で、巻子本の中の1枚です。

堺に拠点を置いていた、足利義維の勢力から発行された文書。
"奉行人連署奉書"と同じ体裁を採ってはいるものの、幕府発行の正式文書ではありません。というか、わざと同じ体裁で作ったもの。こっちが正当な将軍じゃいっ!と、言いたげです(^_^;)
当時、京を追い出されたとはいえ、将軍は義晴のまま。義晴が元号を「享禄」に改元していましたが、気に食わなかったのでしょう。「大永」のままで文書を発行しています。




東寺の安全を保証する"禁制"です。
東寺は、この2日前にも細川晴元から"禁制"を得ていた (前期でレポート してます)のですが、晴元は破れて京から去ったため、新たに幕府の"禁制"を獲得しました。
東寺の、権力者を渡り歩くというか、この辺のスピード感がスゴイですね~(^o^)




折り紙の1枚ものです。
"今村慶満"って、誰やねん?ですが、
悲劇の将軍 13代足利義輝 


が急速に力を失いつつあった頃、義輝に敵対していた細川氏綱配下の武将です。
この今村慶満は、三好長慶らと共に京都周辺の支配を狙っていました。
そこで、細川氏綱方の勝龍寺城の改修を東寺にさせようとしました。
この文書は、東寺に勝龍寺城の改修を命じる文書です。
東寺は嫌がっていましたが、力づくでもやらせたかったのでしょう。8人も連判させてます(゚д゚)!





一枚ものの折り紙です。
"書状"ですから、お手紙です。
書いた人は、中村高続。誰やねん?ですが、三好長慶の部下です。
当時に宛てた、足利義輝との決戦が近づく中でのお手紙です。
内容は「松永久秀 


殿が尽力してくれたお陰で、東寺さんが陣所になることは無くなりましたよ。安心してね。」というもの。
ところが、どっこい!この後、東寺は三好軍の本陣になってしまうのでした……(;´д`)トホホ…武士の言うことなんで、あてになりません……ヤレヤレ


以上です。文字ばかりだし、室町時代なんて大河ドラマにもなってないしで、なかなかわかりにくくてスミマセンm(_ _)m
しかも、展示終了してますし……


次回は、もっとわかりやすいのをレポートします(^_^)/~~