ブログの力
7月6日(23:00)
ブログの力って凄いな、と思いました。
昨日アップした「気になるニュース」で、「・・・東京にしばらく滞在する予定なので、心配です」、と書いた一行から、私の動きをつかみ、メールを送って下さった方がいます。
今から30年ほど前の古い話しですが、ツアーでご一緒した中のお一人からで、東京に来られるのなら、あの時の仲間を集めて再会しましょう、という、非常に懐かしく、嬉しいお誘いがありました。
面白いものですね、仕事柄、これまでにどのくらいの方とご一緒したか分かりませんが、この一通のメールで、30年前のワンシーンが昨日のように蘇ってきました。
スペインの古都「トレド」での想い出です。
若かりし日の皆さんのお顔も鮮明に浮かんできます。
ひょっとして、とアルバムをひもとくと、記念写真も出てきました。
「CASA de GRECO」(グレコの家)の中庭で撮ったものです。
「国際都市タンジール」の時にもそうでしたが、このようなご連絡を頂くと、ブログを始めて本当に良かったと思います。
最初は、自分の思ったことを自由に書け、特に「ちょっと言わせて」では、「ごまめの歯軋り」ではあっても、辺り構わず愚見を出せますので、ストレスの発散にはもってこい、という気持ちでしたが、こんな隠れた喜びもあるのですね。
面白いから・・・。と私にブログを勧めてくれた友人も、45年も疎遠だった旧友が、「あなたのブログを見た」といって会いに来てくれた。と書いてありました。
こんなことも含めて、勧めてくださったのかも知れません。
いつもながら、東京での私の滞在は、先のクリントン国務長官のスペイン訪問と同じように、「Relanpago」(稲妻)滞在になりますので、上手くお会いできるかどうかは分かりませんが、今日は猛暑も吹き飛ぶような、スカッとした気持ちになりました。
気になるニュース
7月5日(23時00)
昨日、今日(5日)と、スペイン国営TVで気になるニュースが流れました。
福島の原発事故の影響で、東京の水道水から、基準値を上回る放射線セシウムが検出された、というものです。
ニュースソースは、アメリカの「サン・フランシスコ クロニカル」だそうですが、私も、昨日からインターネットを通じ、気をつけて日本の新聞や、NHKをはじめとするTVのニュースを注意深く追っていましたが、それに類する報道はされていません。
スペイン国営TVでは、日本側は、そんな事実はないと否定していると補足はしていますが、風評被害というのはこのようなことから発生します。
事実を隠蔽しているのかも知れませんが、そうじゃないと否定するのなら、納得のいくような説明をしなければなりません。
そうしないことには、日本人はこの事実を知らされてないにしても、東京のライフラインである水道から基準値以上の放射線セシウムが検出されたというニュースは、スペインだけではなく、世界を駆け巡っていることでしょうから、せっかく戻りつつあった訪日客の足も確実に遠のくでしょう。
スペイン国営TV「TVE」は、NHKと違ってスポット広告は流す代わりに、視聴料はとりません。もちろん、ネットワークは最大で、視聴率も殆どの分野でトップを占めています。
この局が複数回流すのですから、相当に社会性が高いニュースだと思います。
冷却機のホースから水漏れがした・・というようなニュースを流すくらいなら、こういうことの真偽を正確に伝えて欲しいと思います。
私も、来月早々には、東京にしばらく滞在する予定ですので、ちょっと心配になります。
水道水を飲まなければ問題ないということでありませんので・・・。
日本人の末裔「ハポン」さん ②
7月5日(23時00)
6月24日にアップしたハポンさんの続きです。
「コリア・デル・リオ」というアンダルシア地方の小さな町に、たくさんのハポン姓を持つ人が住んでいる、と書きました。
今日は、それでは何故、この小さな町になのか、というところを書いてみます。
厳しいキリスト教禁教令の最中、仙台藩主伊達政宗の命により、1613年10月28日、支倉常長を長とする遣欧使節団を乗せたガレオン船「サン・フアン・バウティスタ」が、今回の大震災で大被害を被った石巻市の月の浦港を静かに離れました。
派遣の経緯や目的については、今日のテーマではないので、詳しくは述べませんが、一行は太平洋を渡りメキシコのアカプルコに上陸、そこから陸路でベラクルスに向かい、今度はスペイン船で大西洋を乗り越え、スペインの南部、グアダルキビル河口の「サンルカール・デ・バラメダ」に投錨しました。
月の浦を出港してほぼ1年後の1614年10月5日のことです。
土地の名士たちの大歓迎を受け、数日を過ごした一行は、大河グアダルキビルを遡り、セビリアに向かいますが、その上陸地点となったのが「コリア・デル・リオ」です。
今なら、ゆっくりと遡上しても100km少々ですので、6時間くらいで着きますが、彼らのコリア上陸は1614年10月23日と記録されています。
もちろん、水路でもセビリアまでの航行は可能でしたが、この町では税関検査や何やらがありますので、ひとまずここで旅装を解き、疲れを癒した後、一行は陸路でセビリアに入ったようです。
このときの滞在は短期間でもありましたので、後々に子孫を残すというような親密な関係は持てなかったようですが、問題は帰路です。
マドリードでフェリッペ三世への謁見、ローマでの教皇へ拝謁という大役を済ませ、一行は再びコリアに帰ってきます。
この時は、国王からの帰国許可書や、メキシコとの直接通商許可書の交付を待つため、長期に逗留することになりました。
現地の娘さんと侍の恋が芽生える素地が作られたのです。
ここではっきりさせて置きますが、支倉使節団には、侍だけではなく、通商が目的ですので多くの上方商人も参加していました。この事実は、この地にハポン姓の生まれた要因となりますので、あえて強調しておきます。
続きは又、機会を見てアップします。