城郭模型製作工房 -24ページ目

城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

初の近代建築模型となります、東大大講堂(安田講堂)模型です。
本格的に製作に取り掛かりました。

無事に設計通りのレーザーカットが上がってきました。

頭の中でこねくり回していたものが、実際にきちんと組み上がるか、緊張の仮組みです。

無事に組み上がりました。

実際に製作に入るまで、頭の中では一度完成しています。それを現実に形にしていく、という作業は毎回新鮮です。

ちょっと高さが低く見えるでしょう?それはこれからの外壁の製作が進んでいく中で解消されます。

この芯を作るまでが、実は大変な作業なのです。

レーザーカットは外注に出すと思いのほか経費がかさみます。この際、工房にレーザーカッターを導入しようと思っています。

ちょっと脱線します。

今日何気なく池田家文庫の絵図を片っ端から眺めていたら、こんな古絵図を見つけました。

「御城弐分割之古絵図」

月見櫓など中の段の北半分が既にあるので、元和以降だとは思いますが、細かいところに興味深い点がたくさんあります。

まず、建物の名称が違っていること。

内下馬門→目安ノ門

花畑隅櫓→満か奈いたい所(まかない台所)
馬場口門→うら門

花畑御殿がなく、長やだけであること。

本段御殿が無く、「御本丸台所」だけであること。

表向き御殿が単純明解なつくりであること。

個人的には「上台所」の南側が、広い「ぬれゑん」になっているのは心強い発見でしたが。

本段御殿がないので、当然渡り廊下もありませんが、廊下門のところは四間の石垣で塞がっていて、三間四方の「うつミもん」(うづみ門)になっていること。
かなり古い時期の岡山城内の様子だということは分かります。


そして最大の謎がここ。
中の段と本段をつなぐ不明門の部分です。

不明門が十間に八間の巨大な建物になっています。
「門屋くら」と書き込みがあり、櫓門ではあるようですが、十間に八間というと天守並みです。

さらにその横に書き込みがあります。

くずし字検索にかじりついて…

2時間くらいかけてやっとこれが「千帖敷」であることが分かりました。

千帖敷 門屋くら!!!

不明門が豊臣大坂城の表御殿(千畳敷)の曲輪の正門である桜門とそっくり、と以前書きましたが…

まさか桜門が十間に八間はあり得ないのですが、豊臣大坂城の詰ノ丸、黒鉄門脇の巨大な櫓台状の区画が十間に八間だったり、

と、「千帖敷」という言葉から想像が膨らんでしまいました。

まあ、これは飛躍しすぎとしても、十間に八間の櫓門とは一体どのようなものだったのでしょうか。

あるいは岡山城の前身である石山城の天守を移していたのか??など、妄想は膨らむばかりで…

(↓石山城の天守台跡)

古絵図、面白いですね。
寛保期の岡山城本丸模型です。

建物をそれぞれ見ていきながら、模型製作での成果を総括しています。

前回に引き続き、本段の建物です。
今回は本段御殿がメインになります。

【本段御殿】
本段御殿は城主の住まいであり、本段への出入りは厳しく制限されていました。本段の正門は不明門で普段は固く閉ざされていたのです。

今回の模型では、寛保期の古図の平面から屋根の構成を推定していますので、人によって見解が異なると思います。

資料とした「御本段絵図」です。

この絵図には確たる年代の記載はありません。
これを寛保期のものと結論づけるまでの流れを簡単に振り返ります。

【本段御殿絵図の年代特定】
本段御殿はその性格上、増改築が日常的に行われていたようです。絵図も大きく分けて四つの時期のものがあります。

最古のものは元禄13年の「御城内絵図」

次に先ほどの「御本段絵図」系統か3枚。

幕末、万延元年の「御本段惣絵図」。『歴史群像 岡山城』などでおなじみの復元図はこの絵図をもとにしています。

万延図から大幅に建物が撤去された「御本段御絵図」

どの絵図も建物の用途による構成はほぼ同じですが、よく見ると間取りが変わっています。
特に北側の天守直下部分と台所周辺は改変が激しいです。
元禄から最後まで残った(と言っても建て替えが繰り返されたかもしれませんが)のは御寝間のある棟と局部分のみです。

この中で資料とした「御本段絵図」が寛保期と言える理由は二つあります。
一つは、中の段の表向御殿の寛保四年の絵図である「御書院御絵図」と、線の引き方や使われている顔料の色、石垣の描き方、そして筆跡が大変似ていること。
特に「御庭」の文字は崩し方も大変似ています。

私は寛保四年の表向御殿御殿を記録した「御書院御絵図」と年代不詳の「御本段絵図」は同一人物によって引かれた一対の図面であると考えたのです。

そして模型の製作が終盤に差し掛かった時に決定的な発見がありました。これが2つめの理由。
岡山の国家老伊木家にゆかりのあるとある個人様が、寛保三年の本丸絵図を所蔵されていることを突き止め、幸いにも詳細な画像を提供していただくことができたのです。

この寛保三年の絵図の本段御殿と、先ほどの年代不詳の「御本段絵図」の間取りがほぼ一致することから、「御本段絵図」は寛保期の御殿の姿を記録していると結論づけました。


模型はこの絵図を1/300に調整して、直接壁を立てていく方法で作成しましたので、絵図のそのままの立体化と言えます。

最終的に、現代の測量結果から起こした地形にピッタリと入りました。この絵図の精度の高さが伺えました。

杮葺と瓦葺きの葺き分けは、元禄絵図の色分けを参考にしています。元禄絵図の御納戸色と代赭色の塗り分けは屋根材の違いと言われています。

御殿の部屋の用途を書き込んでみました。

実際にはお菓子部屋、中い部屋、茶間、湯殿など、もっと細分化されています。

【泉水・築山】
御殿の南西部は庭となっており、泉水があります。
この泉水も見取り図が残っています。
奥に築山があり、蘇鉄が植えられていたことが分かります。
この完成写真では分かりにくいですが、築山や石組みも出来るだけ見取り図に近づけています。
築山がよく見える製作途中の画像です。


【渡り廊下】

岡山城の御殿の最大の特徴である、渡り廊下です。

奥御殿と表御殿を階段のある渡り廊下で結んでいます。
御書院廊下は元禄絵図には無く、のちの増築です。

この辺りはまさに通路の立体交差、さまざまな動線が重なり合います。

●廊下門→台所
廊下門をくぐって坂道を登り、表向御殿の台所に達するルートです。台所の勝手口に繋がる、日常的なルートです。

●本段御殿→花畑廊下→花畑御殿
本段御殿から、山里のような機能となっている花畑御殿へのルートです。本段御殿から一旦廊下門まで階段で降り、さらに階段を使って下の段の花畑御殿へ至ります。

●本段御殿→花畑廊下→廊下門→表向御殿
元禄絵図にある本段御殿と表向御殿を結ぶ、当初からのルートです。

●本段御殿→御書院廊下→表向御殿
のちに増築されたルートです。廊下門を経由せずに、直接上下の御殿を繋ぎます。先ほどの当初ルートとの違いは傾斜で、急な階段を使わずに緩やかに御殿の行き来ができます。城主が日常的に使ったものだと思われます。

●御秘用口→御秘用口御門→台所脇→廊下門
本段御殿の北御座敷の庭にある「御秘用口」から地下通路を通り埋み門の御秘用口御門を経由する緊急脱出通路です。
現在は塩蔵脇の石段で中の段と繋がっていますが、御殿は現在の石段の真上まで建っており、残りの石段部分も庭となっていました。古絵図にはここに「御秘用口」と書いた小さな切穴のようなものと、そこから繋がると思われる埋み門状の「御秘用口御門」が描かれています。
今回の模型では、地下通路として表現してみました。

この場所はこれら5つのルートが立体交差する、大変特異な空間でした。

【眺月】
本段の建物、最後は天守の東に建つ高床の座敷、「眺月」です。

この建物は、絵図から階段を昇って座敷に至る高床の建物であるらしいこと、座敷には床があり、しかもそれは数寄屋風の棚であるらしいことが伺えましたが、この建物の用途をはっきり確定させることができずにいました。

絵図の描写を素直に立体化するとこのようになります。
次の間の三畳は増築部分です。

物見かとも思っていたのですが、座敷作りであることから、どうらや遊興性が高いようです。
元禄絵図を見てみると…なにやら部屋の名前が書いてあります。
寛保絵図と比べると、主室のみだったり、床の位置が違ったりしていますが、北側に箱段(絵図では箱はし)があること、やはり階段で昇る高床建物であることなど共通しています。

この文字が読めなくて…
ツイッターで聞いたところ、読める方から教えていただきました。

「ちやう月」と読めます。と。

なるほど!ちょう月!眺月だ!

ということで、高床の離れ座敷、眺月です。

ちなみに、幕末の万延絵図では「御賞◯」(◯は山かんむりに判。御相伴の当て字か)となっています。
御相伴とは茶室の次の間のことを言いますので、茶室であった可能性もあるでしょう。

【樹木】
特筆すべきは、「御本段絵図」には樹木の記載まであることです。樹種まで書き込みがあります。
模型ではこの記述にならって樹木を立てました。
ただし、東側の局と土塀の間は大変狭く、絵図にある樹木を立てるのがとても難しい状況となりました。
おそらく、実際にはもう少し軒が浅かった、プラ材の厚みでほんの僅かに実際より建物が大きい、などの理由が考えられますが、それほど本段には建物がぎっしりと建ち並んでいたということです。

以上、本段の建物でした。

次回は中の段に進みます。

【岡山城本丸模型(寛保期)】
岡山寺にて公開中!
(岡山市北区磨屋町)





岡山城本丸を寛保期の姿で模型化しました。



岡山市北区磨屋町の岡山寺様で公開中です。




何度かに分けて、模型製作の成果を総括する記事にします。

今回は本段の1回目です。

【天守】
今回、天守は戦前の貴重な実測図である仁科氏の図面を基調に模型に起こしました。

図面の段階で薄々感じてはいましたが、実際に立体にしてみると、最上階周辺が古写真よりもどうも潰れて感じます。氏の実測は内部からのみで、おそらく最上階入母屋の野小屋が考慮されていないと踏んでいます。四重目唐破風とその下層の入母屋の棟の高さも今後検討の必要があるでしょう。
それでも岡山城らしさを損ねてはいないと思います。

模型の製作の期間中に、天守南側からの全貌を写した新たな古写真が2種類も出現し、そのうち一枚は模型の所蔵先である岡山寺様が現物を入手されるという、これは貴重な発見であったと思います。


これはこの先、天守のより精巧な模型を製作する際に重要な資料となることでしょう。

それでは本段の建物を。
【不明門】
普段は固く閉ざされていた本段の正式な入り口である門です。

牙城郭実測図では素木の真壁に描かれますが、古写真では塗籠の真壁となっています。屋根には一対の鯱をのせます。
今回は塗籠の真壁として造形しました。
門の内側には番所があります。


【(武具方)三階櫓】
不明門から多聞櫓で繋がる三階櫓で、本段の南側正面に位置します。「三階櫓」と呼ばれますが、寛保期のものと見られる「御本段絵図」には「武具方三階御櫓」と記されています。

古写真では上重は塗籠の白壁で正面の出窓がもっと大きいです。今回は牙城郭実測図の姿としました。
棟飾りは鯱ではなく鳥襖となっています。
現在出されている復元図は、なぜか古写真と絵図の折衷となっています。

【干飯櫓】
三階櫓の東側に並ぶ二重櫓です。正面に軒唐破風を見せ、格子出窓を設けます。

牙城郭実測図では三階櫓とともに、石落しが用を為さない側面にまで回り込んで描かれます。
模型では正面のみとしましたが、上の古写真もよく見ると確かに側面まであるようにも見えます。立地場所の不自然さと加え、移築を思わせます。
大棟の飾りは鯱ではなく鳥衾です。



【東多聞櫓】
本段東側の多聞櫓です。
南半分は重層、北半分は単層となります。

牙城郭実測図では北半分の単層の多聞櫓と並べて「御掃除方物置 御同所東平御多聞」と書かれています。
大棟には、鳥衾も鯱ものせません。

この多聞は内部が下男部屋を始め賄部屋など畳敷の居住空間となっています。
さらに穀物の精製所である舂屋(つきや)を接続しています。絵図を見ると舂屋の中には踏み臼があり、すぐ隣には米壺場が並ぶなど、生活感の溢れる空間となっています。

【要害門】
六十一雁木上門ともいう高麗門です。
現在、戦後に建てられた門がありますが、正確な復元ではありません。

牙城郭実測図を見てみると「御台所脇要害御門」として記録されています。

控え柱上の屋根は板葺きとなっています。

この平面図をみると、階段を表すかのような線が引かれているため、控え柱が六十一雁木側に立っているように見えますが、次の六十一雁木下門の描写をみると、控え柱は本段内部に立っていたことが分かります。

【六十一雁木下門】
切妻、真壁の櫓門です。

この描写を見ても、上門と下門は一対の門であると認識されていたようですが、郭内側が高麗門、郭外側が櫓門と、通常と逆になっているのが面白いですね。
牙城郭実測図から建具の様子まで分かりますので、一応それも再現しています。
大棟には鯱も鳥衾ものせません。

次回は本段御殿などです。




岡山の津山から更新です。

岡山城本丸模型を、無事、納入致しました。

岡山城下で最古のお寺、岡山寺さんです。

当初は展示台の完成後の公開ということでしたが、模型の完成を喜んで下さり、ケースもできてきたので、もう公開でもいいとご住職の即断でした、

岡山城本丸模型は岡山市北区磨屋町の岡山寺さんにてどなたでも見ていただけます。
(会館で法要などの際は見られないこともあります)

シティーミュージアムの元禄期の模型と見比べてみられるとおもしろいと思います。

この納品に先立って、最後の撮影。
夕暮れとか

真上からとか

ぎっしりとか

建物ひとつずつとか

庭とか。

模型が大きい上に動画素材もあり、撮影にはかなり時間がかかりました。
これらの写真を使って、また岡山城本丸の解説記事を書きますのでお楽しみに。

今週はそれと同時並行で、安田講堂と護摩壇のレーザーカットも無事入稿でき、あとは届くのを待つだけです。


レーザーカッターはもうこの際、工房に導入しようかと検討中です。
外注に出していると、経費がバカになりません。

そしてさらに忙しい時には何かと重なるもので。

とある雑誌からまた急なお話で。締め切りまで1週間なかったと思う。しかも自分で「こんなんつくりましょうか」とか提案して首を絞めてしまい。

とにかく忙しい週でした。

今日はなかなか来れないだろう津山城に。

あいにくの天気でしたが。

いつか行きたい!と思っていた津山城。

いいですね。

こういうの大好き。