【引き続き迷惑な文章です。自己満足的な色合いが強いので、今後はブログにはあげず、作品ギャラリーの随想コーナーにひっそりとアップしていきますので、興味のある方のみご覧ください】
(続き)
前の章で文学における余白について言及するのを忘れていました。
定家の頃の和歌においては、さかんに幽玄ということがいわれました。この幽玄体について、鴨長明は『無名抄』の中で「幽玄とかいふ体」とは「いかなるべし」、どういうことですか、と問うています。この問にはこのように答えています。幽玄とは「ことばにあらはれぬ余情、姿に見えぬけしき」である、と。言葉を使ってよむ歌の、使われた言葉に[あらわれていない]余情と、そこにあることばの姿に[見えていない]気色が幽玄なのである、と答えるのですが、文学においても、言外にある余白、間、を鑑賞したのでした。
ここで、日本美術における地と図の関係を西洋のそれと比べてみると、たとえばレオナルドのモナ・リザでは、窓辺に座る一人の女の背後には、山なみや湖、橋や道が見えている。その背後にある景色が地であり、椅子に腰掛けた女が図であるわけですが、背景の景色(つまり地)は、たとえ前に女がいなくとも、れっきとして成り立っています。地は地としてそこにあり、図は図として独立して成り立っている。
(モナ・リザ 部分 レオナルド=ダ=ヴィンチ ルーヴル美術館)
ところが、日本における余白は、図が描かれて初めて余白として成り立つ。図が描かれなければ、それはただの白紙であり、金紙でしかありません。図が描かれると同時に、それは立ちこめる霧となり、蓮の香匂う清らかな水辺となるのです。また、余白自体の面白さも図があって初めて立ち現れてきます。地と図がお互いの関係の中で生まれ、相照らすものとして成立している。日本における地は、絵画においては余白、音楽や造形物、建築物においては間(ま)、もしくは陰陽という言葉となります。陽ざしなければ陰生まれぬがごとく、西洋と違い、日本における「地」と「図」は片方がなければそれぞれの意味を持ち得ないというところに特殊性があるように思います。
会田誠の「火炎縁蜚蠊図」に現れた想像を絶する余白は、一目見ただけでは小さな黒点でしかないゴキブリに対しては広大すぎる気がしないではありません。しかし、よく考え合わせると、広い部屋に一匹現れただけで、ともすれば家中が大騒ぎするほど、ゴキブリの存在は大きいのであり、あの広い余白は、多くの人が恐れるまでに嫌悪する「ゴキブリ」という「図」を支えるには必要最低限の大きさであるということも言えるのです。余白の広さが、ゴキブリの存在の大きさそのものである。
今まで書いてきたようなことをぼんやりと考えるようになったのは、模型を極限まで削ぎ落として建物だけにしたときに、それを載せる台、つまり余白の大きさを決めるについて、なみなみならぬ苦労をし、神経をすり減らしたからでした。
模型によって、しっくりくる台の大きさが、それぞれに違うのです。せますぎては模型が窮屈に感じ、広すぎてはせっかく完成させた模型の力が散って弱まってしまします。自分の感覚だけを頼りに台の大きさを決めるときに、琳派の画集を見ると、不思議とちょうどいい塩梅の台の寸法がすんなりと決まったのでした。そういう経験から、どうやら琳派の画の特質は、余白と図像の配分にあるらしいということを思い始め、現代のデザインの現場でも琳派の作品が参考にされていることに納得もしたのでした。
余談ですが特に陽明門は、城の天守より割合として大きな台を必要としました。それはもちろん、この隙間恐怖症であるかのように装飾過多の、冷静に見れば奇っ怪な建造物がなみなみならぬ力を四方に発散しているからでした。私は日光東照宮を美しいと思っていないのではないか、と自分で自分のことを疑うことがたまにあるのですが、あの、これでもかという装飾、あらゆるビラビラで飾り立てられた空間に一方では一抹の嫌悪にも似た感情を抱きつつ、しかしながら一方では感銘に貫かれるのです。やはり量は質を変じるという法則がここでも成り立つのであって、日光東照宮は等伯の松林図とは真逆の方向に突き抜けています。
陽明門は冬に見るのが一番いいと私は決め付けています。墨一色の杉の木立の中、冴えざえと冷え澄みきった空気の中で、冬の低い陽光を受けて金碧極彩色がいっせいに輝くさまは浄土の荘厳そのものであり、藝の術をして見るものに宗教的感動をもたらすに余りあります。
もうひとつ余談を加えると、金閣はどこまで削ぎ落としても水面といくつかの島を残さなければ金閣として成り立たず、この建物がいかに苑池と一体化しているかを思わされたのでした。