【めんどくさい文章なので、興味のない方はスルーしてください】
私はこれから、休みの日に隙があれば、思いにまかせて、自伝とも、芸談とも、評論とも、解説とも、随想ともつかない、およそそれは独白に近い文章を書くことにしました。
書くことといえば、もちろん、この2年ちょっとの間につくってきた模型のことの他に何もないのですが、今、ある種の独白的模型論を書くことについては、いささかの抵抗が無いといえば嘘になります。しかしながら、この2年は数々の、たまたまの仕合わせ(幸せではなく)の中で、それは本当に偶然にいろんなことがまさしく仕合わせていったのだと心からの感謝をもって実感せずにはおられないのですが、ともかくも2年の間、日々、模型作りに没頭、というよりもはや没して、埋もれていたその中で考えたことや頷いたことを、今35歳という年で書いておくのも悪くは無いと思ったのです。
水に沈んだ私の姿は、岸からしか見えないものでしょうけど、水に沈んだ時ではなければ見えない景色もあるでしょう。
2015年の4月30日に、部屋の片隅で埃をかぶっていた姫路城と松江城を売りに出し、それぞれに八千円ほどの値がついたことから生まれた小さな勘違いが私に模型製作に沈む毎日を突然としてもたらしたのですから、いつ模型製作をやめ、あるいは続けられなくなるか分かりません。
今、没したところで見、考え、感じたことを、思うままに書いてみることにします。
模型の余白の話(1)
シンプルさは究極の洗練である。
レオナルド・ダ・ヴィンチが遺した言葉です。
美における洗練という一面においての本質を突いた言葉です。
シンプルさということにおいては、日本ほどにそれを追求し、そして突き抜けていった美術史を持つ国は他に無いと思っているのですが(日本美術におけるシンプルさについてはのちに書きます)、私のつくってきた模型のなかで最もシンプルなものは、建物だけ、天守だけをケースに入れただけの一連のものになります。
地面すらつくらずに、建物だけという形に至るまでには過程があり、2015年末につくった興福寺の五重塔が、その原形です。この時はまだ、地面と、木柵と三本の松、それに鹿を配置しています。
そういうものも全部取っ払って、間引いて、最後に建物だけが残る、ということですが、これはやってみると、その建物というよりむしろ、その建物のあるまわりの空間、その建物がそこにあることによって生み出される空気に面白いものがあることに気づいたのでした。
日本の絵画においては、よく、余白の美などとも言われますけれど、何も無いところに無限の有を見ることがあります。
それは大和絵に始まり、狩野派の金壁画を経て、琳派において完成すると大雑把に捉えていますが、それぞれ名目上ではまったく別系統の絵画の流れの中で、画面の余白の持つ意味の変遷と完成が見て取れるというのは面白いことです。
私の考えでは、大和絵では、描く内容を間引いてスッキリさせていただけだったものが、狩野派では背景の「地」とそこに描く「図」の分断が起こります。
(国宝 山水図屏風 神護寺)
(韃靼人朝貢図屏風 伝狩野永徳筆 ボストン美術館)
ところが琳派にいたるとその「地」と「図」の比例、塩梅、に表現の主眼が移り、地と図の重点の逆転すら起こってくる。そう私は見ています。琳派には余白の残し方、余白の見せ方にこれでもかとこだわったものが多く、余白の表現のし様がすなわちそのまま絵の面白さでした。
そういうなかでやはり等伯の「松林図屏風」は異色で、これは地と図の分断への抵抗のように思えます。真っ白な画面に朦朧と松林が煙っています。しかしながら、何も描いていない、その白の紙の色で、たちこめる霧を表現しています。何も「描かない」ことによって霧を「描いて」いるのです。
狩野派と琳派のちょうど中間に、この等伯の「松林図屏風」があるということの意味は改めて書くまでもないでしょう。
私は数年前に六本木の森美術館で会田誠の「火炎縁蜚蠣図(かえんぶちごきぶりず)」を見たのですが、一面の金地に小さな黒い点、よく見るとそれは一匹のゴキブリ、が、黒々とした墨で、さらりと、まことに美しく、そして張り詰めた緊張感の中に描いてあるのです。おそらくここまで広い余白…つまり地は空前であり、描かれた図がゴキブリであるというそのことによって、金に輝く一面の空間の意味づけも自ずから変容するのです。日本の絵画の特殊性を現代アートの文脈の中で鮮烈に提示した作品でした。
音楽では能の「道成寺」の乱拍子、もしくは「石橋」の乱序の中盤の「露の手」とよばれる囃子において、それは極まります。つまり全くの無音状態、次の鼓が打たれるまでの間の、ただ張り詰めた空気だけが存在するという音の無い長大な静寂空間に、清姫であった女の亡霊の情念、あるいは獅子の棲む深山幽谷を表し出すのです。音が有ることではなく、音が無いことによって表現される音楽が、どこの国にあったでしょうか。日本の音楽は「間(ま)」にあり、「間は魔に通ず」という格言が生まれるほど、「間」という無音のなかに音楽を見たのでした。
彫刻では、すでに天平の頃、東大寺戒壇院の広目天像において、その視線、この像が見据えた先にあるもの、それを表現することに成功しています。
日本ではこのように、そこに「ある」ものよりむしろそこに「無い」ところに何かを見るという独自の、あるいは特異な、あるいは高度な、あるいは迷惑な美意識を発達させたのでした。
さて模型に戻ると、はじめからこのようなことを狙ったわけではないのですが、ジオラマからいろんなものを取り去ってメインの建物だけになった時に、確かにそれは面白いのでした。
しかしながら、地ー背景である周辺の空間を変容させるには、やはり図ー模型の質が重要なのでした。