「怒ってますねえ(笑)」
と言われまして。怒ってません(笑)
なぜこんなにこだわるかと言いますと、ネット上には豊臣系の天守が黒い、徳川系の天守が白いという根拠の無い俗説を、あたかも定説であるかのように紹介したものが大変多く、きちんと反証を挙げて否定した記事が無いからです。
お城鑑賞入門の基礎知識のようなサイトに豊臣系は黒くて(下見板張)、徳川系は白い(総塗籠)とあるのを見ると、基礎知識で間違ったものを刷り込まれると大変だと思ってしまいます。こういう最もらしく見えて、しかも分かりやすいものは一度思い込んでしまうと、その枠を外すのが大変です。
逆に徳川系の黒い天守として、小浜城と和歌山城をあげておきます。
小浜城は、酒井忠勝が寛永十五年に天守を上げます。忠勝は幕府の信頼が特にあつかったので、築城に際しては、幕府お抱えの大工である中井正純(正清の弟)が派遣されるという特別扱いでした。一大名の築城に幕府お抱えの大工があたるのは稀なことです。この時中井正純が引いた天守の指図が残っています。五重天守と三重天守の二種類の図面が伝わり、実際には三重天守で建てられました。この小浜城が下見板張の黒い姿です。
また、紀州徳川家の和歌山城には面白い図面が残っていて、天守の立面図が二枚重ねになっていて、下見板張にするか塗籠にするか検討した形跡があります。
真剣に迷ったのでしょうね。結局、藩主の好みで塗籠になったそうです。
真剣に迷ったのでしょうね。結局、藩主の好みで塗籠になったそうです。
徳川家御三家の中ですら、徳川だから塗籠にしなければならないという意識など無かったことを伺わせます。
前回の記事にコメントを頂きました。その中のご指摘の通り、確かに、家康が建てた慶長度江戸城の真っ白な天守(鉛瓦で本当に真っ白だったようです)が契機となって、塗籠が流行ったことはあるでしょう。
そして、大名が塗籠の天守を建てるようになったもう一つの契機に、漆喰の作り方の変革もあると思います。それまでの漆喰には米から作る米糊を使用していたため、漆喰は大変高価で贅沢なものでした。
のちに海藻糊を使うやり方が生まれたため、安く大量に使えるようになりました。この時期は定かではないものの、安土桃山時代から江戸時代の頃とされていて、ちょうど築城が盛んだった時期と重なります。
塗籠が広まった大きな理由の一つに、この漆喰の価値の下落もあると私は考えています。
ですので、塗籠(白)と下見板(黒)の違いは、豊臣系の城か徳川系の城かを判断する基準にはなり得ません。見た目からは徳川系と豊臣系を読み取ることはできません。
話は変わって。おとといまで熊本におりました。実は被災後初めてでした。
城内はほぼ全域入ることができません。最近天守脇の加藤神社までは通行が許可されました。
大天守の屋根には早くも草が生えていました。
広島大の三浦先生の調査によると、昭和、平成の積み直し部分の50%が崩落。明治に修復した石垣は100%が崩落。清正の石垣は2%のみの崩落にとどまったそうです。
城の隣には「城彩苑」という、複合お土産タウンがあります。平日ということもあったのでしょうが、午後4時、普段なら登城を終えた観光客でにぎやかなはずがこの有様。お店は全部営業しています。
「熊本城の新しい見どころ」として城内の被害状況が紹介されています。
満身創痍でもなお、その傷ついた姿を見てもらおうという、その姿勢に頭が下がります。熊本城がいかに熊本の支えであるか…
みなさん、熊本城を見に行ってください。
私もお城の模型を通して、出来る限りのことを続けていきます。
そしてご依頼の安土城全山模型はレイアウト中。施主様のご意見を聞くため紙に絵の具で水面を描き、山の外周だけ切り取って配置しました。手前が城下町なので、もう少し奥行きを取れればと思うのですが…オッケーが出れば山を積み始めます。
名古屋城の単体模型のご依頼も入りました。
これまでヤフオクなど個人間取引でやってきましたが、おかげさまでお問い合わせの件数も増えてきましたので、自分のやっていることに責任を持たねばならないと思い、現在ネットショップを準備中です。
もっと気軽にご注文いただけるよう、フォームを作ったりしています。完成品の定価販売やガレージキットの取扱いもそちらで出来るようにと思っています。まあこれはヤフオクからほとんど撤退することを意味しますが、今現在、開店に向けて勉強中です。