徳川の城は白い??白い天守と黒い天守 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

寛永度の江戸城天守を三浦先生の最新の復元案カラーで出しましたらヤフオクの商品ページに案の定質問をいただきました。

一つ目は現在の天守台を見られたらいかがでしょう、というお叱りのようなおすすめのようなアドバイス。

色を黒くしましたからね。
でもこれは、前の記事で書いたように、現在の天守台は寛永度のものでは無いのです。全くの別物です。

明暦の大火の翌年に、加賀藩が白い御影石(花崗岩)で新造して寄進しました。家光が外構から天守台が見えるのが気に入らなかったという遺志を反映して、高さを一間半低くつくったというのも前回書きました。

では古い天守台の石が残っていないかというと現在も残っています。
天守台の内側の黒い部分、
小天守台の黒い部分↓
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中雀門の枡形の石垣も、寛永度の天守台の石の転用だそうです。
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ですので、この色あいを表現しました。
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江戸城の天守台の解説看板には、確かそこまでの説明が書いてなかったと記憶していますので、今現在の天守台を、寛永度のものだと思い込んでおられる方は案外多いようです。かく言う私も、そのように思っていた時期がありました。



もう一点、徳川の城は白いというのが歴史学上の定説だ!というご意見。

まず、寛永度の天守の外壁が白かったという学説は皆無ですから、どう申し上げていいのか分かりません。

次に、史学の先生で徳川系の天守が白くて豊臣系の天守が黒いなどという分類の説を唱えられた方がおられたのも記憶にありません。私の勉強不足でしょうか。歴史学上でそんなことが定説になっていれば大問題だと、史学にド素人の私でも思います。

豊臣の城が黒い?
秀吉の肥前名護屋城は総塗籠でしたし、伏見城や聚楽第も白い姿が想定されています。宮上先生復元の大和郡山城(豊臣秀長)も総塗籠です。(下見板張りかもしれないとの注釈はありますが、豊臣系が黒いのがお約束、定説だったらはじめからそう復元されるはずです。)
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徳川の城が白い?
家康の駿府城は?東照宮縁起絵巻に描かれる駿府城は真っ黒です。徳川の城が白いという認識があれば嘘でも白く描いてよ!と言いたくなります。
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名古屋城の多聞櫓も築城当初は全て下見板張りで、本丸北側の多聞櫓は明治まで黒いままでした。
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井伊直政の彦根城だって一重目は下見板張りです。
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豊臣の城は黒くて、徳川の城は白いという認識は、少なくとも建築史家の先生には無いようですし、そもそも事実としてそのような分類は全く当てはまりません。豊臣系が黒くて徳川系が白いというのはよく言われるようですが、これは俗説です。

徳川幕府が漆喰塗りを推奨した!という指摘もありますが、これは市街地の防火のために、庶民に使用を禁止されていた漆喰塗りを解禁して、推奨した、というもので、城に対して推奨したことは無いようです。

では黒と白の違いはというと、三浦先生の説明ですと以下の通り。

「これまでの城郭史では、古い天守が下見板張り、新しい時代の天守は塗籠とされてきた。下見板は防火性が劣る旧式とされてきたからである。」

→少なくとも新旧による分類はあったことが分かります。しかし、それは徳川だとか豊臣だからというのとは関係なく、建物の防火性という、建築技術上の発展過程での分類であることが分かります。


「しかし、下見板が燃えようと、背後は厚い土壁なので、天守本体が類焼することはありえない。防火性能において優劣の差はほとんど無い」

→今までの分類の方法の根拠が無くなりました。では何が理由で下見板と塗籠の違いが出てくるのでしょうか。

「しかし耐久性となると、漆喰は容易に水分が浸透して頻繁に塗り直さなければならない。現存天守では、犬山、彦根、松江、丸岡、松本といった古い時期のものは確かに下見板張であるが、年代の新しい丸亀、備中松山、伊予松山も下見板張で、特に伊予松山は幕末の再建である。壁の仕上げと築造年代は無関係で、塗籠か下見板張かは、見栄えをとるか耐久性をとるかの違いである」

ということで、財政的に豊かか、そうでないかも大きな理由のようです。

例えば山内一豊の掛川城は、当初は総塗籠の真っ白な姿でした。当然、一豊は豊臣系の大名です。この白壁は秀吉の聚楽第に倣ったともいわれます。
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しかしこの天守も幕末の嘉永年間の絵図を見てみると二重目に下見板が張られています。
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これは財政的に塗籠を維持することが難しかったことを伺わせます。

壁の色に豊臣系か徳川系かは全く関係ないというのが結論です。でもどうしても分けたい方は、
徳川系の天守は白い。けれど、豊臣系の天守もかなり白い。そして、家康は駿府に黒、江戸に白の天守を建てて、家光の天守は黒い。
と分けてください。

もしくは
お金があるところは白い。黒くなってくると帳簿が赤い。
でも家光は真っ黒に見せかけて一番お金持ち。
で分けてください。

ああ、分類の無意味さよ。


豊臣系と徳川系で重要な要素とみなされていたことが、別にあるということを指摘しておきます。

それは最上階の回り縁と高欄です。
掛川から土佐に移された一豊は高知城を築きますが、その時「掛川のとおり」(『築城記』)と命じて天守をつくらせます。
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ここで問題となったのが最上階の縁と高欄で、宮上先生の文章を借りますと「縁・高欄付き天守は大坂城はじめ豊臣氏の天守の形であるためであろう、これをはばかる空気が家臣にあり、特に家康の許可を得て造ったという。」(『復元大系日本の城4 東海』掛川城の節、宮上茂隆)とあり、最上階の回り縁と高欄は豊臣系の天守のかたちであるとの認識が当時あったようです。

そもそも、建築は分類から外れようとするものです。他人と違う建物をつくろうとするからです。
城となるとそこに政治的な意味合いも含んできますから、自分の望む他の誰とも違う建物を、あるいは主君の城に倣いながら、あるいは遠慮をしながら、あるいは許可を得て、というふうにさまざまな制約の中で生み出していったのです。さらにそこに建築技術の進歩や改変といった要素も絡んできます。

私はひとつひとつの建物について、他の建物からの影響や美意識、時代の空気やその建物を生み出した背景などを、個別的に読み取ることは大変重要だと思いますが、ある類型で乱暴に分類することは、建築の上では無意味だと考えます。


いただいたご質問から、改めて勉強させていただけました。