昨年末、広島大の三浦先生が書かれた『城のつくり方図典』を買いました。
棟が全て金になっていて、長押にも金具が取り付けてあります。
緑青の吹いた屋根と白と黒の壁、破風に飾り金具の金。
屋根まで真っ黒。
この黒の正体は…
チャンという塗料です。
先般、出雲大社の修復では、銅の棟や千木と勝男木にチャンが塗られました。銅の表面保護のために塗られる塗料で、松ヤニやら油やら鉛、炭などを混ぜて作るそうです。出雲大社の修復では、その配合がよく分からず科学分析をしたり苦労があったようです。黒光りしています。
江戸城は、屋根と下見板のように見える壁の下半分には銅板がはってあります。竣工時には、この銅の屋根と壁にチャンが塗られて真っ黒だったという考証です。
日光東照宮のチャンには漆が混ぜられています。
チャン塗りも時の経過とともに剥がれて銅が腐食し、独特の色合いになっています。
早速模型にしてみたくなってやってみました。
じゃーん。
恐ろしくド派手。今までのイメージと全然違います。
少し錆びが出て、ほんのり緑がかった頃を想定しました。
軒瓦も全て金押し。漆喰の白は特に鮮やかに塗装しました。
寛永度の天守といえば、天守台の色も注意せねばなりません。
現在、皇居の東御苑に天守台がありますが、これは明暦の大火のあとに、加賀藩のお手伝い普請で新造されたものです。寛永度より高さが一間半ほど低くなっています。なぜ低くしたかというと、家光が生前、城の外から天守台の頭が見えるのが気に入らないと言っていたからだそうです。家光の美意識が伺える逸話です。
(『江府天守台修築日記』「外構ヨリ石垣之ミヘ候義、大猷院様不可然思召候由ニテ、壱間半ひくく成候也」→「不可然」しかるべからざる、そうあるべきでない、とかなり気に入らなかったのでしょうね。)
小天守台の形状も幕末に南半分が一段低く改造されています。
あと、石が白っぽい花崗岩になっています。
寛永度の天守台もこの色だったわけです。
童友社のキットは、現在の新造天守台を元にしているようで、小天守台の形や全体の高さが寛永度と異なります。
高さを変えるのは大工事になってしまうので、この度は色彩メインで、せめて小天守台の形だけ変更しようと思います。
高さを変えるのは大工事になってしまうので、この度は色彩メインで、せめて小天守台の形だけ変更しようと思います。
こんな時は三浦先生が監修されたペーパークラフトのファセットさんに聞くのが一番早いと思い、即電話。
「昔、内藤先生のペーパークラフトには切妻で壁に囲われた井戸屋があったんですが」
「どえらい古い資料見てますね」
ガーン!!
そりゃそうだ。もう20年近く前のことだ。情報がアップデートされていないことを痛感。
「で、井戸屋は」
「そこははっきり分からんのです。あれは大阪城の小天守台とか参考にしてあるみたいですけどね。あと、寛永度は多聞櫓が繋がってるので階段で下りる切り欠きがあります」
「あと窓の中は」
「窓の中の復元は実は○△□…(オフレコ)」
進行中なのですね。
結局、今回は色彩メインということで、小天守台の造形はお座なりにしました。
プラ板でかさ上げしただけです。
小天守台はリハビリモデラーさんが考証とともに本当に細かく作りこんでありますので、そちらをご覧ください。→こちら
ファセットさんから黒い江戸城が出てますのでそちらもご覧ください。→こちら
なんとも今までのイメージとかなり違いますが、江戸城の天守に関しては実は今まであまり研究が進んでいなかったようで、今現在研究の真っ最中なのですね。
最新の色彩考証による江戸城でした。
久しぶりにヤフオクに出していますので欲しい方はよろしくお願い致します。
徳川の銅瓦の天守といえば名古屋城があります。木造での建て替えが決まったようです。こちらも考証がきちんとしていればチャン塗りの屋根で出来上がるでしょうから、黒い名古屋城になるのでしょうか。