豊臣大坂城本丸全景【建物①】 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

少しずつ建物に入っています。

山里曲輪のとなり、芦田曲輪の長屋です。
芦田曲輪および山里曲輪は、「本丸図」では井戸が一つあるだけで空白になっています。秀吉は天守完成の前の年に、早々に山里の茶室開きを行っていますので、山里は最初から整備が進んでいたと言われています。なぜ建物が書かれていないのか、こういうことを考えるのも面白いです。
宮上氏の復元をはじめ、ほとんどこの芦田曲輪には、城警護の者たちの長屋や蔵のような建物が想定されているようです。
プラ棒を加工してそれらしく形作ります。
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瓦のモールドまでは入れませんでした。

天守。
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付櫓は「城郭コレクション」の江戸城の最上階を使います。「城郭コレクション」はヤフオクでもプレミア価格になっており、販売していた当時に購入していなかったことを悔やみました。

今回、天守の向きは東西棟にしています。理由は、「夏の陣図屏風」に描かれる天守最上階の唐破風内の四神が、南の朱雀になっており、私は南からの天守のスケッチをはめ込んだと考えています。この屏風を描かせた黒田長政は、冬の陣の際には江戸に止め置かれましたが、夏の陣にあたっては、豊臣家の最後を見届けたいと強く家康に希望して、秀忠の本陣に詰めることを許されたといいます(新潮選書『豊臣大坂城』)。秀忠の本陣は大坂城の南、現在の生野区の御勝山古墳にありましたので、そこからの眺めだと南面の天守になるわけです。
さらに、本丸図を見ますと、天守初層は東西12間×南北11間だったようです。
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自然に考えると大入母屋は東西棟です。宮上氏の復元案は、夏の陣図屏風を西からの姿だということにこだわりすぎて、二層目の屋根の四隅の棟が三層目の壁面の四隅に接続しないという、無理やりな感が否めない復元となっている気がします。
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赤丸部分で東西だけを逓減させ、南北棟の大入母屋を確保しています。
以上の理由から南向き(桜門および極楽橋向き)の天守でつくります。

次に土塀。
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爪楊枝の下にある、白黒のラインが土塀の壁部分のパーツです。2ミリ幅プラ板を使いました。屋根は1ミリの三角プラ棒を使用します。

天守が上がり、土塀といくつかの長屋ができました。
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天守はまだ接着していません。

それにしても「本丸図」は不思議な図面です。空白の山里丸、色分けされた御殿、天守周りの朱線、びっしり書き込まれた石垣の寸法。何のための図面なのでしょうか。いつの時点の姿でしょうか。
櫓は書き込まれ、色分けもされているのですが、天守部分は白地のまま。天守は無かったのではという説すらあります。
また、下の図の黄色の丸の部分
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私には櫓台に見えて仕方がないのです。小天守の存在は、案外どの学者さんも柔軟に考えておられるようで、私はこの部分にまで何らかの建物があってもおかしくないと思います。
もう一つ気になるのが天守への登り口です。緑丸の上に、先ほどの黄色の櫓台?に登る階段がありますが、ここは奥御殿の築地塀で閉鎖された奥の奥です。御納戸から突き出た厠の奥になります。また、宮上氏や三浦氏の復元案では天守南に、天守入口があります。御納戸の奥、風呂屋の裏のこれも築地で囲まれた部分です。そこにたどり着くまでには、御物蔵や土蔵の間の狭い狭い空間を通るか、土蔵の北側を通ることになります。もっとスムーズな天守への登り口はないものでしょうか。
そこで気になるのが北側の青で示した石垣です。緑丸のように上部に登る階段が一つもありません。石垣上全面に多聞の可能性もありそうです。もしここに左の矢倉(月見櫓)から多聞が天守までつながっていれば、櫓、もしくはその付近から入り、多聞内を通り、黄色の部分の付櫓内の階段を上って天守台上、もしくは内部に繋がっていれば、スムーズな登り口になり得るように思えるのですが。
実際この部分に、長局を想定する説もあります。

私なりの勝手な考察でした。