熱狂の日韓ワールドカップが終わり
もうすぐお盆休みというとき彼は亡くなった

 

午前3時過ぎに眼が覚め
ジョン・アービング原作の
不思議な余韻の
映画「サイダー・ハウス・ルール」を見終え
朝食時にH君から電話がかかった
「Tが死んだ」

 

Tとの出会いは強烈だった
高校1年の校内サッカー球技大会
僕は試合をコントロールし、
チャンスがあればゴールを狙う中盤ポジション
全く同じ位置に彼はいた
指示する声は耳に障る、
パスコースは塞がれる、
僕より華奢だが当たりは強い

 

生意気な奴

 

2年になったら同じクラスになった
ずっと引きずっている僕に比べて
彼はいきなり「カモさん」と「さん」付けだった
度量の大きさに驚いた
僕らは友達になった

 

その夕方弔問した
もう端正な彼ではなかった
でも彼だった

 

その後、毎年お盆前に彼を偲ぶ集いが催された
僕も呼ばれた
僕は出席しなければという義務感から出た
だけど、毎年足取りは重かった
奥さんと小学生の子供を残し無念の内に亡くなった彼
能天気に生きている僕

 

とずっと思っていたが
今年初めて呪縛から解放された
奥さん、小学生だった子、お母さん
みんな仲間になれた

 

今年の偲ぶ会の前
お母さんから
「もう、十年やってもらったから
 息子も満足していると思うから
 今年限りにして下さい」
と僕に連絡があった
僕は「お母さんの気持ちは分かりますので
 みんなに聞いてみて下さい」
当日お母さんからその旨伝えられたが
誰一人肯定しなかった

 

友達の死というネガティブな記憶でも
時間がその記憶を中和、発酵させて
違う次元に連れて行ってくれたのかなと思った

 

来年からはワクワクして出席できそうだ。

 

義父の葬儀の際も流したこの曲が
何故好きなのか今日判った
サイダー・ハウス・ルール・メインテーマ

 

***

 

2011/8/13(土) 午後 10:03

「あのー、」と戸惑ったような口調だった
声の主は駐車場を借りていただいているお客さんで
駐車場内で車をぶつけられたらしい

電話を貰う2日前の夜に
勤務先から帰宅し駐車
その際には両側のスペースは空いていたらしい
翌朝見ると、右前方に擦れた跡
昨日は空いていた右側のスペースは車があり
左側面には多数の傷跡

何度か駐車場内で顔を合わせたことはあるが
氏名、連絡先は知らない
傷の位置、高さからすると間違いないと思うが
断定的な言い方はできないし、、
と悩んだ結果、直接聞いてみようと
連絡先を教えて欲しいという内容だった

「僕が状況を確認して連絡します」
通常、駐車場内の事故等は当事者同士で解決してもらい
土地所有者や僕らは介入しない
契約書にもその旨記載してある
でも、今回は僕が関与したほうが
簡単に治まるような気がした

「お隣へお止めの方から、もしかして接触されたのでは
 とご照会があったのですが?」
と隣の方に尋ねると
「はい、そうです。でも、よく見かける方なので
 お見かけしたときにお話しようと思って、、」

その後は双方の連絡先を伝えて一件落着
と思っていたら電話の主が事務所にいらっしゃった
「会社の同僚にいきさつを話したら
 普通の管理会社はそんなこと絶対やってくれないぞ」
と言われたらしくわざわざお礼にみえた
本人も当事者同士で解決しなければと思っていたので
簡単に済んで助かったと喜んでみえた

駐車場管理において一番大事なのは
ハード面 ①入りやすく、出しやすい
②駐車スペース、通路ともに余裕がある
が一番大事であるが
トラブル時の対応というソフト面も
ポイント大と改めて考えさせられました

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2011/8/9(火) 午後 4:12

小学校の妖怪のI先生宅へ初めて行く
先生は82歳で一人暮らし
眼と耳が少し不自由なことを除きいたって健康
やっぱり妖怪。
若くしてご主人と死別し、娘さん、妹夫婦と
同居していた時期もあったが今は一人
「O君初めて来るのね。廊下はウグイス張りよ
 びっくりしんといてね」
と電話の向こうでうれしそう。

 

I先生には小学校4年から6年まで
3年間担任してもらった
その間クラス替えも無かった
小学校6年のうち半分がクラスも担任も固定
今にして思えば不思議

 

そう不思議な小学校だった
クラス名は松・竹・梅
学級委員ではなく、級長、副級長
就任時には七宝焼き製のバッジがもらえる(僕は無縁)
あとで知ったことだが
ウチの小学校の校長は名古屋市全部の小学校の校長会の
会長ポストだった。
「今日は視察の日」と朝言われると
その日は入れ替わり立ち代りダークスーツの人が
授業参観に来た(当時の文部省だったらしい)

 

僕の4年生の1972年に学校創立100周年を
迎えているので明治5年(1872年)の学制公布時の創学だ。

 

校舎はアールデコ風のスティール窓のクラシックな建物
プールは昭和38年、市内の小中学校で先駆けて
1400万円の寄付金を集め民間で完成したらしい
僕が入学する直前には学童水泳大会で日本一にもなったらしい

 

おかげで水泳部に対する思い入れは強いようで
4年生になり野球部に入りたかったが叶わず
水泳部に配属(軍隊風)、入部初練習
「はい、遠泳2000m、100mダッシュ20本」
という恐ろしいものだった

 

I先生は「私は細かいことを気にしない」と
生徒にもあまり注意することなかった
僕の母も細かいことを気にする性格ではなかったので
勉強は全く分からなかったが学校生活は心地よかった

 

「新瑞の交差点でO君のお母さんとすれ違ったの」
「姉の嫁ぎ先が近くにあるので、、」
「お互いに気がついたけど、
 今にして思えば、何で立ち止まって
 お話しなかったんだろうって思って。」
「ウチの母ちゃんは小ぜわしいので
 なかなか捕まりませんよ」
「でも、私より3つも下なのに逝っちゃうなんてね
 本当に後悔しているわ」

 

ありがとう先生。想いはきっと通じてます。

 

写真は私は先が短いから「持ってけ」と
貰ってきたうちの一枚
中央の赤いジャンパー着て
勉強している振りをしているのが
私です


 

参考文献「幅下小学校を考える」幅下会・幅下小学校父母と教師の会著(1988.3.1)

 

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2011/8/5(金) 午後 10:58