終電で乗り過ごし大垣駅で降りる
もう電車は動いていない 0:30
駅前に数台のタクシーが止まっていたが
運転手がかたまって立ち話をしている

アルコールのせいか
その様子が時代劇に出てくる
悪徳駕籠かきに思えて
歩いて帰ることにする

1次会が終わり居酒屋のカウンターで
きゃっきゃと笑いながら楽しんだが
話した内容はほとんど覚えていない

大垣と岐阜を繋ぐ国道に出れば
帰り道は簡単
全線に側道が付いていたかどうかは
覚えていないが
まあ、何とかなるだろう
3.11震災時の首都圏を危惧した身なら
修行しなければ。

電車で寝ているときから
iPodを聞いていて
鼻歌交じりの夜の散歩
半袖でも寒くなく
汗をかくほど暑くもない

千鳥足を心配した2次会同席者から
岐阜駅に付く頃に
メールをもらっていたことに気付く
「起きてる!?ちゃんと降りてよ」
ありがとう全然気付きませんでした

途中、街灯の影で
歩道の突起に気が付かず
バタンと前方へ両手を突くような
転び方をする
国交省へ危険箇所として
連絡したほうがいいかと思うが
深夜の散歩の危険想定はしてないかなと
思い、やめる

それよりも大型トラックが居眠りしてたら
車歩道の間にある分離帯を乗り越えて
一瞬であの世行きだ
以後、昇天回避のため前方から来る車を
確認できる右側車線の歩道を進む

そういえば小学校4年になる前の春休み
当時住んでいた名古屋から
仲の良かった岐阜の従兄弟のところへ
自転車で来たことを思い出す
その前の夏休みに挑戦したが暑くて断念して
満を辞しての挑戦だった
何時に家を出て何時間かかったは覚えていない
着いたときにはジーンズの左尻部分が
擦れて破れていた
叔母さんが「自転車で来たの?」
とびっくりして家に電話しに飛んでいった
数日過ごした後、叔母さんの車に
僕の子供用自転車を積んでもらって帰った
その叔母さんも亡くなって10年が経つ

歩きながらいろいろと思索する
岐阜市内へ入る橋を渡る頃
ああ、もうすぐだと思ったが
ここからが長くしんどかった
ずっと一人もすれ違うことなかったが
JR岐阜駅近くで
初めて散歩している人を眼にする

家に着いたのは4:20頃
グーグルマップで調べると
僕のルートは14.8km 徒歩3時間4分
だから46分遅れ、情けない


翌日のカミさんの嘲笑が心地いい

写真は安八町付近で撮ったもの


***

 

 

僕の知り合いから聞いた話

その人は娘さんと話していた
「ねえ、パパ。
 お願いがあるんだけど」
ギクッ
「なっ何?」
「私に子供ができたらパパが育てて」
「えっ何で」
「私の子供も、パパが育てて、私みたいに」
「・・・」

 ってさ

Isn't it lovely?


***

 

2011/9/17(土) 午後 11:33

左手が不自由だと
茶碗を保持できない
テニスでサービスするときに
指が引っかかりトスが真上へ上がらない
野球の守備時にグローブを立てられない
と結構不便
唯一ありがたかったのは右手じゃなかったこと

整形外科へ行く
発症から10日経っていた
診察結果はCTのときと同じ
左橈骨神経麻痺
先生に
「針灸院で針うってもらうと
 一発で直るんでしょうか?」
と思い切って聞くと
「そんなとこ行かんでもうちで直るよ」
上腕部外側を長時間強く圧迫すると起こるらしい
CAが機内で座って壁面にもたれかかっていて
麻痺した例もあるらしい

その日から低周波電気によるリハビリを始める
眼の検査の時に使う片目を塞ぐしゃもじみたいな
電極版を上腕部二箇所に付け通電する

電気の強さは1から10段階まで
ナースに「強さは自分で調整して」
と言われダイヤルを上げる
2,3,4何も感じない
5,6,7あっピリピリくる
この感覚は、そうだ
銭湯の電気風呂だ

生まれ育った家は風呂が無かったので
毎日銭湯に行ってた
銭湯は近所の社交場みたいなもので
友達と会うと当然遊び出す
電気風呂も最初は苦手だったが
友達と我慢比べするうちに
電気で体が金縛り状態になっても
平気になっていった

これならと思い目盛10まで上げる
ピクンと手首が勢いよく跳ね返る
「大丈夫ですか?痛くないですか?」
「ああ、子供の頃から慣れていますので」

リハビリの電気は5秒毎程の
インターバルでオン、オフが繰り返され
15分間続く
その間自分の意思とは関係なく
ピクン、ピクンと跳ね返る手首
周りの老人方は大体膝の治療で
ピクン、ピクンは僕一人
面白くもあり、情けなくもあり

3週間ほどで95%回復
リハビリ終了


***

 

2011/9/12(月) 午後 0:47