Un poisson rouge -89ページ目

ボヘミアン

人が好きなのだ。

多分それはわたしの根幹にあって、これからも変わらないように思う。

だから、辛いのだ。
何故、だから、なのかは分からないけれど。。

別れも辛いし、
どんな風に接することが、
その人の幸せに繋がるのか、とか
色々考えてしまうと、
辛くなることが、ある。

そうさ、だからわたしは

ボヘミアン。

スナフキン的なところを、
どこかに持っているような気がする、のさ。

今日は、夏がもうすっかり終わったかのような、
涼しさだ。

免罪符

ことばはコミュニケーション手段だけれど、
ときには誤解も生む。
口は災いの元、ということわざが、それを表しているような気がする。

でも、誤解とは何だろう。
自分が、勝手に誤解だと思っているだけかもしれない。

どうしたって、ときどきことばの世界は辛い。
わたしにとっては。

表現という手段は、善悪を問わないから、
とても自由だ。

そういう世界を、いつも夢見てしまう。

人は、善悪ではなく、好き嫌いを基本として出来ている、と思う。

そういった意味で、人は皆、鋭利な刃物のようなものを抱えて生きている、と
わたしは今のところ、思ってしまっている。




わたしは、勝手に傷つく。

そしてきっと、自分が傷つくのと同じように、
無意識に人のことも傷つけている。

これが自分という人間の弱さなんだ。


文章を書くことは、
埋まることの無い穴を、
埋める代わりの、
免罪符のようなもの。

意味の無い世界へ行くための
細い道。



だからこの文章に、意味を見いださないで下さい。笑


どうかおひとつよろしくお願いします。

失敗から学ぶというシンプルさ。

人の(というか、現代人の…)人生というものは、本当に意味が分からない程複雑でありながらも、意味が分からない程単純なことで、ハッピーになれてしまえるのも事実だなあ、と思う。

シンプルでありたいと心から願いつつ、日々は複雑化し、その複雑さが限界まで来ると、シンプルさに退避しようと試みる。こんなサイクルで成り立っているようにも思える。

複雑にしようとしてしまうのは、自分自身に他ならないのかもしれないけれど。

私は抽象的なことばかり考えてしまう癖があるような気がする。
そしてそれはあまり良いことのようにも思えない。。
抽象に逃げたい、逃避願望があるのかもしれない。
でも、それじゃあ、自己満足するという利己的な空想の類それ自体のためだけにはOKかもしれないけれど、人には伝わらないに決まっている。。。




そして、あまり関係ないことだけれど、
この前、考えていたのだけれど、

人は物事の最後まで、自由だな、と。
自由は責任が伴うわけであるから、実際その自由には制限があるのだけれども。

しかし、選択する自由は、最後までひとりひとりの手中にあるはず。








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訳あって、今、
自動二輪(バイク)のマニュアル免許を取得するための教習を受けているのだけれど、
何故か、いつも毎回のように、私はうまく曲がり切れず、(それは、恐怖がその主な原因だという自覚があるのだが、)1回に、1度か2度転倒している。

転倒すると、次に転倒しまいとして、余計に力が入り、そして余計に緊張し、余計に転倒しやすくなるという悪循環に陥ってしまうように思う。
運転には、身体をリラックスさせ、余計な力を入れない、ということが何より大切である、と、身をもって知る。

堅いと、うまくいかない、締めるべきところをしっかりと締め、あとは柔らかく、これが基本なのだと思った。

しかしながら、この間の転倒は、ゴムで出来たコーンの置いてあるところでバイクと身体が一緒に傾いてしまい、そこで地面に倒れ、右足首の上に運悪くエンジン部分が乗る形でバイクが覆い被さった。とても痛かったのだが、それより何より、恥ずかしかった。そして、自分で起き上がれなくて、助けていただいた。しかも、皆で同じ軌道をぐるぐる回る練習中であったので、恐らく後続の人も相当危ない思いをしたか、もしくは、倒れたわたしには見えなかったが、「そして皆倒れる~」というような教官の声がうっすら聞こえたので、もしかしたら玉突き寸前よろしく、ドミノ状態になりかけていたのかもしれない。

なんという失態・・・。見る限り、今までわたし以外で、バイク教習中転倒している人はいない。ちょっとよろけるくらいの人はいても、地面に完全にバイク共々崩れ落ちる人はいない。
毎度、「ころぶ人」でおなじみになってしまっているに違いない上に、皆様にご迷惑をかけ、何とも、文字通り、「痛い」わたし。

わたしが痛そうにしているのを見て、教官はその日の教習を途中で切り上げることをわたしに勧めてくれ、そして、靴と靴下を脱いだ赤らんだわたしの足にアイシングのスプレーをしてくれた。
そんなときでもわたしは女だからなのだろうか、それはあまり関係ないかもしれないが、妙に冷静、客観的に、メタの自分が上の方から見ている感覚がある。もちろん足は痛いのだが、そのとき同時に「ああ、なんて恥ずかしいんだ」「申し訳なさすぎる」「こんな日に限って5本指ソックス」「ペディキュアはがれまくっている」等々、本当に余計なことを考えてしまっている。自分で言うのも何だが、あきれるほど、どうでもいい。

とぼとぼと、控え室に向かって歩き、座ったら、教官が氷の入った袋を準備してくれた。
「俺だったら傷口見てすぐ今日は帰る、てなるけどなー。そんなんで大丈夫、て言うんだからすごいな。」
と、言われた。気を遣ってくれているに違いない。申し訳ない。
しかしながら、思ったほど痛くないわけで。(北の国から調)

わたしの脳の処理スピードの問題かもしれないけれども、身をもって普段あまりしないような経験をすると、何が起こったのかを解析するのに時間を要するのかもしれない。その解析中、冷静さを失わないために、スクリーンセーバーのごとく、上記のどうでもいい事どもが走馬灯のように頭をかすめていくのかもしれない。

結局、しばらくその場で足を冷やし、傷口にはいただいた絆創膏を張り、着替えて、心配して下さる教官や、スタッフの人にぼそぼそと大丈夫です、、と言いながらその場を後にした。

念のため、教官に勧められたこともあり、外科でレントゲンをとってもらったが、骨に異常はなく、打撲であった。

果たしてこの一貫性の無い文章で何が言いたかったのか、自分でもよく分からなくなってしまったが、
人間は、身をもって(できれば派手に)失敗することからしか学ばないかも、しれない、です!!!

「膝と脇を締め、上体はリラックスして柔らかく、近くでなくて、自分の行く先を見ておく。」

まるでちょっとした人生訓・・・?