Un poisson rouge -86ページ目

京都と大阪

京都と大阪に行ってきました。

前職の営業所の方にご飯をごちそうになったり、久々に後輩にあって方々を案内していただき杯を交わしたり、汗かきながら山を散策したり、寺社にて歴史に思いを巡らせたり、非常に充実した時間でした。

京都営業所のみなさん、後輩のNくん、本当にありがとうございました!

西の京からいただいたパワーで、益々頑張ろうと思います。

すすめっ。


感謝のご利益。

何となく、物事の調子が良くなさそうだ、とか、
不安や心配で、胃がキリキリするようなときには、

全ての物事と、人に、感謝の念を送りまくるというのは、どうだろうか。

そうすると、
何となく、その、調子の良くなさそうな感じだとか、
抱いていた心配や不安が、緩和されるような気は、しないだろうか。

ほうら、感謝・・・感謝・・・
キリキリ感は緩和されてきたはず!

感謝という行為、祈りの持つ、効能の、ご利益に授かること。

感謝、感謝、です。

振る舞うことと、現実の間。

まるで、そうであるかのように振る舞うこと。

と、

本当に、そうであること。

の、間には果たしてどのくらいの距離があるのであろう。

人は多かれ少なかれ、演じながら生きている、とも思う。

そしてそのことはとても興味深い。


そうであるかのように振る舞うこと。

それは一種の才能であるかもしれない。

いつの間にか、
もしかしたら、
振る舞っていたつもりが、本当にその、振る舞っていたものに近づいて行く、ということもあるかもしれない。

このところ、そんな風に思えてきた。

振る舞うこと、とは、
夢見ること、に、似ていると思う。

夢見ることは、「こうなりたい」「こうしたい」と思うことを実現しようとすること、である。
振る舞い、演じるということは、そうではない自分の状態や状況を、そうであるかのようにする、ということだ。

これは、夢見るプロセスに似ているような気がする。

演じること、振る舞うこと、は、
ときに少々危険な道かもしれない。(「偽り」を含むという意味で。)

しかし、その行為はうまくすると、
現実化の手段となりうるのかもしれない。(もちろん、現実化の手段とは全く異なる次元で「演じる」ということが持つ意味も、とても深いと一方で思う。その場、その時限り表出する、「現実」として。)




振る舞い、演じること。

誰にとっても多かれ少なかれ経験のあることであるからこそ、
とても興味深く引きつけられる。
日常の中でそのことについて考えてみたい。