Un poisson rouge -84ページ目

実験中。

今までに読んだ様々な本に書いてあったことを、実験してみることにした。

それは、「自分の思考を変えることが、現実を変える」ということである。

言い換えれば、現実とは、見方次第で変わってくる、ということである。

自分が変われば世界が変わる、と言うのが、シンプルかもしれない。

いずれにしても、自分の考え方を、変える実験をすることにしてみた。

具体的には、言葉を変える試みである。

私は今まで、ほとんど無意識に、自分の思考を作っていたような気がする。

ものや人や出来事に対して、無制限に自分の感じたことを当てはめ、その色眼鏡をほとんど瞬時に、ほとんど無意識のうちにつくりあげ、口には出さなかったとしても、心の中で言葉にして「思考」していた。

しかし、その判断をいったん、置いておき、特に、最も自分の問題である、ネガティブな思考について、
見方を変えてみる努力をしてみようと思う。

こんな自分になりたいな、と、思っても、なかなかなれなくて、いつも苦悩していた自分から、
こんな人であったら良いな、と思う人に近づくための実験。

言葉で考える前に、その言葉を変えてしまう。

見方の転換の実験は、悩み傷つく弱い自分から脱するための、挑戦である。

全ては自分の思考が、現実を決めているのだ。

人を信じることは、自分を信じることに、必ず結びつく。

ポジティブに物事を捉えることができたら、
世界は、ポジティブな場所に変わる。

そんな風に思うのです。

「真実はいつもひとつ。」(BY コナンくん)に関する考察。

「真実はいつもひとつ」

かの有名な、漫画『名探偵コナン』のコナン君の決め台詞。

探偵が、事件に隠された真実を解き明かし、犯人を突き止めるため、様々な糸口を頼りにしてひとつの真実に辿り着くという意味で、この言葉は使われている。

わたしはこの言葉は、何気ない台詞だけれど、とても深い意味を持っているような気がする。

真実は、ひとつ。解釈の仕方によっては、そうだと思う。

しかし、本当に、真実はいつもひとつなのか。

客観的な事実は、ひとつだと言えると思う。

たとえば、昨日、台風が日本列島を襲ったこと。

これは、ひとつの真実だと言えると思う。

しかし、人によって、ときに、真実は異なって存在しているものであるような気がする。

「これは本です」というとき、
「本」という名前で、その、紙で出来た、厚みのある物体が呼ばれることは、もちろんひとつの事実だが、
同時に、「book」でも「libro」でも、事実である。

そんな風に考えてみると、真実とは、
ただひとつのやり方、形式において真実であれば真実である、というような、
単純なものではないのではないか。

真実とは、同時に複数存在するものであると言えると思う。

同じ場に居合わせ、同じ体験をした人同士だって、
物事の感じ方は違う。

同じ条件下で、誰がやっても同じ結果になること、を、科学的事実と呼ぶけれど、
しかし、本当の意味で、「誰がやっても同じ結果になる」ことは、存在するのであろうか。

厳密に言えば、現在、科学的事実として認められていること、というのは、
「誰がやっても」ではなく、「多くの人がやっても」ではないか。(また、「同じ条件」は、厳密に言って、存在するのかどうかも、疑問である。寸分たりとも違わない環境、なんて、この地球上の時の流れの中に、存在するように思えない。)

子どもの屁理屈みたいな話かもしれないが、
地球上の全員が、同じことを再現できるということ等、そもそも不可能ではないか、と、少し考えれば私のような未熟な人間でも分かる。

その、現実としては不可能であることを、無理に理論の上で成立させ、
科学的事実だと言っていることが、今の科学における「科学的事実」なのではないか。


唯一絶対の、真実など、存在しないのではないか。

「信じる人もいれば、信じない人もいる」

そのこと自体が、真実なるものがひとつではない、ということを物語っている気がする。

先日マララさんとカイラシュさんが、今年のノーベル平和賞を受賞したことが、公に発表された。

私は単純に、マララさん受賞の一報を知ったとき、本当に嬉しかった。

しかし、ネット上には様々な意見があった。

ノーベル平和賞の政治性を、自分も理解しているつもりだが、それでも、国際的に認められた賞で、今回、オバマ大統領のように、アメリカの政治的リーダーといういかにも政治的な存在が受賞をしているわけでもないにもかかわらず、否定的な意見もあった。

その一件でも、わたしは考えざるを得なかった。

世の中に、本当の意味で、ユニバーサルな事柄など、あるのだろうか、と。

それは、無いのかもしれない。

人間ひとりひとりにとって、真実は異なるのだと思う。

ひとりひとりの人生の中で見聞きすることは、ひとりとして同じ人はいないのであるから。

そして、それで良いのだと思うし、それを、理解している、ということが、大切だと思う。


そういった意味で、

真実は、いつもひとつ、ではないのだと、私は思うよ、コナン君。



雨と水に、思う。

雨。

私は、雨女のようだ。

小学校の遠足は、ほとんど雨であった。

それまで雨が降っていなかったのに、私が外に出ると降り出す、なんてことも、結構、ある。

前世は雨乞いだったのかなあ、と、ときどき冗談めかして、思う。

雨の音が、結構好きである。

意外と、降っている雨を見ながら、雨音を聞きながら、ぼーっと観察して、何時間も過ごしてしまえるようなタイプの人間だと思う。

こんな雨でも、鳥の声が聞こえる。

鳥は雨に濡れながらも、盛んに鳴いている。

雨音と鳥の声。




とても、静かである。





そういえば、
この間京都に行ったときに訪れた、水の神様を祀る貴船神社という神社は、
その昔から、日照り続きの際に、雨乞いのために幾度も祈祷に訪れられた場所として記録されているそうだ。

水は、恵みであるなあ、と思う。

本当に、今天狗が現れてもおかしくないような、そんな雰囲気が漂う、天狗伝説で著名であるという、鞍馬山の参道を通り抜け、貴船神社に辿りつく。
青々と繁茂する木々の間を下る、長い山道の終わり頃、少しずつ、川の音が聞こえてくる。
貴船神社の脇道に沿って流れている、貴船川の流れる音であった。

その川沿いの道の途中に立て看板があって、和泉式部という歌人が、平安時代に歌に詠んだ蛍が、1000年後の今もこの場所で見ることができる、とあった。

その看板を見て川音を聞きながら、しばし、その遠い遠い昔と今を繋いでいる同じ川と蛍に思いを巡らし、感慨にふけってしまった。



水の恵みに、
雨の日曜に、
感謝を捧げたい。