雨季とおすすめ移動手段。
暑い暑い、雨季のセネガルです。
年中暑く、夏のようなセネガルであっても、季節は巡っているんだなあ、と実感する、雨季。
恵みの雨であること、沙漠の土地であるここでは目に見えて明らかで、黄土色の砂地であった場所に、緑が出て来ています。水があると、植物はその生命力を発揮して、芽吹くんだな、ということがよく分かります。その草をヤギや牛が食んでいます。乾いていて、トゲトゲの(本当に!)いかにも見た目がイカツイ、接触注意な植物なんかがよくあるこの土地でも、雨はそういった緑を、そして循環をもたらすものなのだ、と思います。
雨が降る前は風が吹き荒れたりして、空も灰色になってきます。激しい風が吹いて来たら、急いで建物に駆け込むか、何かを被るかしないと、間もなく、激しい雨がやってきます。
この間あった雨はとても激しくて、車が道を通れず川のようになっていました。
道が寸断されてしまうのです。ズボンの裾をまくし上げ、足を浸かりながら帰路につきました。
そんなセネガル、今学校は夏休み。
来月にはまたイスラム教の犠牲祭、「タバスキ」(他のイスラム教の国では「イード」という名前で呼ばれていたりもするようです。)があります。
羊をさばいて頂くお祭りで、この時期は至る所で羊が運ばれている様子が見られます。そう、車の上に、羊が括り付けられていたり、馬車に人間とともに乗っていたり、小さなバスのような乗り物の足元に、何かうごめくぞ、と思ったら、羊がいたり、そういった光景がよく見られます。(普段でも見られたりしますが。)
雨季である今は、個人的に移動手段でおすすめなのは、馬車。
馬はさすがで、水たまりも頑張って歩いています。人間がそのように、頑張らせている、という風にも言えるのですが・・・ いつもありがとうね、馬くん。
馬車の揺れは心地良いし、少し視線が高いので、周りがよく見えるんです。
そんな頑張っている馬くんの写真を、載せますね。
雨季によく見られる水たまりと、頑張る馬くん。
年中暑く、夏のようなセネガルであっても、季節は巡っているんだなあ、と実感する、雨季。
恵みの雨であること、沙漠の土地であるここでは目に見えて明らかで、黄土色の砂地であった場所に、緑が出て来ています。水があると、植物はその生命力を発揮して、芽吹くんだな、ということがよく分かります。その草をヤギや牛が食んでいます。乾いていて、トゲトゲの(本当に!)いかにも見た目がイカツイ、接触注意な植物なんかがよくあるこの土地でも、雨はそういった緑を、そして循環をもたらすものなのだ、と思います。
雨が降る前は風が吹き荒れたりして、空も灰色になってきます。激しい風が吹いて来たら、急いで建物に駆け込むか、何かを被るかしないと、間もなく、激しい雨がやってきます。
この間あった雨はとても激しくて、車が道を通れず川のようになっていました。
道が寸断されてしまうのです。ズボンの裾をまくし上げ、足を浸かりながら帰路につきました。
そんなセネガル、今学校は夏休み。
来月にはまたイスラム教の犠牲祭、「タバスキ」(他のイスラム教の国では「イード」という名前で呼ばれていたりもするようです。)があります。
羊をさばいて頂くお祭りで、この時期は至る所で羊が運ばれている様子が見られます。そう、車の上に、羊が括り付けられていたり、馬車に人間とともに乗っていたり、小さなバスのような乗り物の足元に、何かうごめくぞ、と思ったら、羊がいたり、そういった光景がよく見られます。(普段でも見られたりしますが。)
雨季である今は、個人的に移動手段でおすすめなのは、馬車。
馬はさすがで、水たまりも頑張って歩いています。人間がそのように、頑張らせている、という風にも言えるのですが・・・ いつもありがとうね、馬くん。
馬車の揺れは心地良いし、少し視線が高いので、周りがよく見えるんです。
そんな頑張っている馬くんの写真を、載せますね。
雨季によく見られる水たまりと、頑張る馬くん。
懸命に生きる。
目覚めると、そこはアフリカだった・・・!
エネルギーをきちんと使わないといけない。
人生は懸命に生きるに値するものなんだと思う。
与えられた時間、与えられた環境を、最大限に生かすこと、よ。
「幸せっていうのはな、死ぬまで走り続けることなんだぞ。」
—吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』(「うたかた」、角川文庫、1991年。)より
エネルギーをきちんと使わないといけない。
人生は懸命に生きるに値するものなんだと思う。
与えられた時間、与えられた環境を、最大限に生かすこと、よ。
「幸せっていうのはな、死ぬまで走り続けることなんだぞ。」
—吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』(「うたかた」、角川文庫、1991年。)より
セネガルの人たちの暮らしに学ぶ、濃密な時間を生きる、ということ。
生きるということは、豊かに生きる、ということだと思う。
豊かに生きる、ということは、金銭的であったり物質的であったり、という意味ではなく、
濃密な時間を生きる、ということではないかと思う。
ここセネガルにいると、時間がゆっくりと流れていく。
それは、社会に流れている時間がゆっくりだから、だと思う。
それはここの気候も大きく関係しているかもしれない。午後は年中、灼熱の日光が輝いており、とても暑いので、昼食の時間は大体、ご飯を食べて休んでいる人が多いのだ。それはある意味合理的でもあると、ここに生活していると思う。日本のように電気も申し分なく全国行き届いている、という環境ではないから、エアコンというものはそもそも、観光地や首都にある建物やホテルなどにあるのみで、それ以外の都市や地方では扇風機もしくは自然の風なのである。日本の真夏かそれ以上のような気候でエアコンがない環境なのだから、せわしなく働き続ける方が非合理的であると思う。
そんな環境は、日本のような暮らしからは「不便」と一見思われるのかもしれないが、不思議なことに、風の心地良さがより身に沁みるし、娯楽の多くない生活は、人との会話を楽しむ時間や、語学を勉強する時間、料理する時間、読書する時間などを、より濃密なものにしてくれるように思う。また、セネガルの人と話すと、セネガルの人たちが、ときにはっとする程、物事をじっくりと、よく見ているし、記憶しているのだ、ということに気がつく。私は、この時間の流れの中で、心に出来る余裕が、そのような洞察力、観察眼を育てるのではないかと思う。かなり前に記憶したという歌の一節をそらで歌っていたり、人の名前をきちんと覚えていたり、前髪を切ったことにすぐに気づいたり。その反面、「インシャーラー(神のみぞ知る、というような意味)」と、何に対しても言って、約束事が確実では無かったりもするのだけれど。でも、よくよく考えてみたら、何事だって本来は、本当に「インシャーラー」であるのが世の中ではないか、とも思う。そう、ここには、人間の日常生活の中に、しっかりと神様が生きているのだ。
セネガルの人たちは、とても人間らしい、と思う。
寂しそうなときには、寂しそうな顔をするし、やきもちを妬いているときや、ふてくされているときも、分かりやすい(笑)。おかしいときにはゲラゲラと笑い、言いたいことをストレートに言う。
皆、日本のような国から見たらお金なんて、本当に、雀の涙くらいしか持っていない。日々何とか貸し借りしたりして助け合って、何とか小金をやりくりして生きている。そんな暮らしは困難なことも沢山あるだろう。けれどその割には、あっけらかんとして、「豊かに」生きているように見える。
近所の人で集まって太鼓に合わせて踊る集まりがある。お祭りのときにはいつもより豪華な食事を食べる。お互いの家に招き合うことも多い。
そうやって暮らしの中にメリハリをつけ、楽しんで生きているのだな、と、思う。しかも、別に誰もそれを強制しているような雰囲気はない。自然発生的で実にゆるやかな感じである。
私もセネガルの人たちに、濃密な時間を生きる、ということを、あと1年、学びたいなと思う。
豊かに生きる、ということは、金銭的であったり物質的であったり、という意味ではなく、
濃密な時間を生きる、ということではないかと思う。
ここセネガルにいると、時間がゆっくりと流れていく。
それは、社会に流れている時間がゆっくりだから、だと思う。
それはここの気候も大きく関係しているかもしれない。午後は年中、灼熱の日光が輝いており、とても暑いので、昼食の時間は大体、ご飯を食べて休んでいる人が多いのだ。それはある意味合理的でもあると、ここに生活していると思う。日本のように電気も申し分なく全国行き届いている、という環境ではないから、エアコンというものはそもそも、観光地や首都にある建物やホテルなどにあるのみで、それ以外の都市や地方では扇風機もしくは自然の風なのである。日本の真夏かそれ以上のような気候でエアコンがない環境なのだから、せわしなく働き続ける方が非合理的であると思う。
そんな環境は、日本のような暮らしからは「不便」と一見思われるのかもしれないが、不思議なことに、風の心地良さがより身に沁みるし、娯楽の多くない生活は、人との会話を楽しむ時間や、語学を勉強する時間、料理する時間、読書する時間などを、より濃密なものにしてくれるように思う。また、セネガルの人と話すと、セネガルの人たちが、ときにはっとする程、物事をじっくりと、よく見ているし、記憶しているのだ、ということに気がつく。私は、この時間の流れの中で、心に出来る余裕が、そのような洞察力、観察眼を育てるのではないかと思う。かなり前に記憶したという歌の一節をそらで歌っていたり、人の名前をきちんと覚えていたり、前髪を切ったことにすぐに気づいたり。その反面、「インシャーラー(神のみぞ知る、というような意味)」と、何に対しても言って、約束事が確実では無かったりもするのだけれど。でも、よくよく考えてみたら、何事だって本来は、本当に「インシャーラー」であるのが世の中ではないか、とも思う。そう、ここには、人間の日常生活の中に、しっかりと神様が生きているのだ。
セネガルの人たちは、とても人間らしい、と思う。
寂しそうなときには、寂しそうな顔をするし、やきもちを妬いているときや、ふてくされているときも、分かりやすい(笑)。おかしいときにはゲラゲラと笑い、言いたいことをストレートに言う。
皆、日本のような国から見たらお金なんて、本当に、雀の涙くらいしか持っていない。日々何とか貸し借りしたりして助け合って、何とか小金をやりくりして生きている。そんな暮らしは困難なことも沢山あるだろう。けれどその割には、あっけらかんとして、「豊かに」生きているように見える。
近所の人で集まって太鼓に合わせて踊る集まりがある。お祭りのときにはいつもより豪華な食事を食べる。お互いの家に招き合うことも多い。
そうやって暮らしの中にメリハリをつけ、楽しんで生きているのだな、と、思う。しかも、別に誰もそれを強制しているような雰囲気はない。自然発生的で実にゆるやかな感じである。
私もセネガルの人たちに、濃密な時間を生きる、ということを、あと1年、学びたいなと思う。
