Un poisson rouge -59ページ目

女性たちとの活動にむけて。

今日から、自分に毎日、一言でも良いからブログをつづることを課すことにしました。末永くよろしくお願いします。

 

今度、自分の任地から30㎞程離れた同期隊員の任地である村にある女性団体で活動をさせてもらうことになり、先日その準備として私の同任地の隊員と私の家で一緒にレモンジャムの試作品づくりを行っていたのですが、レモンの皮をひたすらむいて中の薄皮を取り除き、実を削ぎ落とすという地道そのものな作業を2時間ほどふたりでやって、その後無事にジャムは完成したのですが、その日の夜、親指に違和感があり、見ると何だか腫れているのです。

どうしたんだろう、レモンの皮を向きすぎてマメでも出来たのかな、と半ば楽観していたのですが、違和感はどんどんと痛みに変わっていき、ズキズキ、じんじんと指一本でも地味に痛みが強く、困りました。

ネットで「親指 痛み」などと検索してみると、色々な可能性が考えられる情報が出てきました。その中に、「菌が入ってしまった場合、指だけでなく他の箇所にも感染が広がる可能性がある」といった情報を見つけ、もしマメではなくて菌であったら良くないな…と思いました。

ここはアフリカなので、そういったことは看過出来ない問題であったりします。実際、他の隊員でも、小さな傷口や蚊にさされた箇所を搔き壊したところから菌に感染してしまい、それが悪化して膿んで長い間治療しなければならないこととなった例もあり、そういったトラブルはまれではないため、私も考えあぐねた挙げ句、やっぱり病院に行こう、と思いました。

その日の夜、親指の痛みはどんどん大きくなり、たかが指一本、されど指一本、ズキズキとした痛みでよく眠れませんでした。

 

次の日病院に行くとやはりこれはマメではなくばい菌が入ったようで、日本での治療と同じように、ばい菌の入った箇所を針のような器具で刺して膿を出し(激痛でした・・・)、消毒してもらい、飲み薬を処方してもらいました。大分前置きが長くなってしまいましたが、そんなことがあって今右手の親指に包帯が巻かれており、洗い物や書き物の作業に右手があまり使えないのですが、パソコンという文明の利器は親指が使えなくても他の指で文章を打てるという素晴らしいもので、その恩恵をひしひしと感じています。

親指一本使えないだけでこんなに生活が不便なのか・・・と、親指が自由に使えることの有り難みを知りました。

 

それはさておき、このようなことになって、活動の予定も変更を余儀なくされてしまいました。本当は、今日は市内の学校で手洗いの授業をさせてもらう予定でしたが、説明を書くことが出来ないので延期してもらい、明日はそのレモンジャムの活動を行う予定だったのですが、これも細かい手作業が出来ないので延期させてもらいました。本当は活動をさせてもらう予定だったその女性団体にはスペインのNGOが入っていて、その村にはそのNGOのスタッフで私とほぼ同じ年齢のスペイン人女性が独りホームステイをしながらその女性団体の活動管理などをしているのですが、彼女に電話してそのことを伝えると、スペイン語特有の巻き舌の混じったフランス語で、「了解了解!心配しないで!」という感じで、来週にまたやらせてもらうことになりました。

セネガルの村の女性たちも彼女もとてもパワフルで、圧倒されそうな自分も想像できるのですが笑、私も早くこの指を治して、ずっとやりたかった女性たちとの活動をしたい、と思っています。

アルルへ。

人生は、楽観することも、悲観することも「可能」だと思っている。

「可能」という言葉を強調したのは、それはいつも選択の問題で、しようと思えばどちらでも出来る、ということを感じるからだ。

 

今、この瞬間、人生を悲観的にみることも出来る。

でも、それが可能ならば、逆だって可能。しかも、いつでも。

 

不安や恐れは、人生を悲観的にするよう差し向ける。しかし、今この瞬間の幸せに目を向けること、それはいつだって出来ることだし、そうすることの効用が、もっと声高に言われても良いのではないだろうか、私はそんな風に思う。

 

きっと、人生を悲観的にみるか、楽観的にみるか、という問題は、遠い古代の昔からずっと人間社会の問題として存在し、議論されてきたのであろう、と思う。歴史の授業で習った、哲学の流派、ストア派、エピクロス派、のように。

 

個人個人が、今この瞬間に幸せを感じるということに、何か悪はあるのだろうか。これはとても個人的な話である。幸せを感じる、ということも、もしかしたら訓練で鍛えることの出来る能力なのかもしれない、とも思う。

 

人は幸せを感じて良い。それをもっと許せる世の中になってほしい。私は微力ながらも、そう、願っている。

 

南フランスの、アルルという町を訪問した。

そこは古代ローマの時代から栄えた町で、その時代の闘技場や劇場、浴場などの歴史的遺産を残している。その一方で、ゴッホがこの町に滞在し絵を描いていたことにちなみ、ゴッホを記念した近代的なデザインの現代美術館もあって、新旧の魅力が共存する所である。ここでは毎年夏に写真祭が開催されるそうだ。小さなギャラリーも町に沢山点在していて、写真ギャラリーはそのお祭りの際に展示を行い、町をあげて写真という芸術表現を盛り上げる場となるらしい。小さな写真ギャラリーに立ち寄ったとき、そこではカナダの氷雪上の家屋を題材とした写真群の小さな展示が行われていた。ギャラリーに在郎していたスタッフの女性がその展示の作家の説明などをしてくれ、偶然か、その作家は日本に滞在し、東日本大震災に伴う福島第一原発による放射能汚染をテーマとした作品も撮っていたことを知った。その大判プリントがギャラリーに保管してあり、それも見せてもらった。プリントがとても精巧であることが一目瞭然で、その涼しげで静寂をたたえた氷雪上の家屋をとらえた展示作品群とともに、印象的なものだった。ギャラリースタッフである彼女は私が今セネガルで活動していることを言うと、その涼しげな展示のパンフレットを一部手渡してくれ、「セネガルは暑いだろうから、この写真を見て涼を取ってね。」という意味のことを言ってくれた。そんなウィットに富んだことを何気なく投げかけられる彼女のセンスに敬意を払わずにはいられなかった。

メーカーとしてイギリスでカメラのマーケティングを行っている一緒に旅した友人は彼女に名刺を渡し、彼女は「また写真祭のときに来たら、作品とともに沢山の写真家に会えるからぜひ。」と笑顔で私たちに言ってくれた。私が最後に拙いフランス語で彼女の名前を聞くと、カトリーヌ、と答えてくれた。

写真祭が催されるこの町では、町角でもその祭りの跡なのか、写真作品のポスター等によく出会った。古いものと新しいもの、芸術活動に対する敬意。それらが入り交じったこの町の空気は私の体の隅々の細胞を刺激して、活性化させてくれたように思う。ローマの古代闘技場の上から見下ろすアルルの町の家々のオレンジ色の屋根。その向こう側に広がる川面のきらめき。雲間から真っ直ぐに水面に注ぎ込む夕刻の太陽光。地方の名物料理である魚のだしが凝縮されたスープの味。そのすべて。

 

まさか自分がこの町にやって来るなんて私は思っていなかった。

というのも、日本で村上龍の短編集、『空港にて』を読んでいて、その中にこのアルルの町が出てきたことをはっきりと覚えていたからだった。水商売をする女性が客のある男性と出会い、プロになるというのは寝食以外1日中し続けられることであれば可能だ、といったことを言われて、密かに、休日のほとんどの時間を、絵を描くことに費やし、ゴッホがゴーギャンと共同生活を送りながら絵を描いていたアルルという町を目指す、という話だった。

 

加えて、もうほとんど遠い昔の話になってしまうけれど、幼少期、私は意識が芽生えた頃最初に抱いた夢は絵描きになるということだった。絵を描くのが好きで、どこかで漠然と、表現活動というものに対する崇拝のような気持ちも、ずっと心に隠し持って生きて来たような節があった。

 

今でこそ世界的に有名なゴッホという画家は、生前、決して順風満帆とは言えない人生を送ったようだった。絵を描きながら、ゴーギャンと共同生活をし、しかしそれも終わりを迎え、自らの耳を切るという行動に出る。その時期を過ごしたのがこのアルルだった。でも、この小さな町にそんな画家を創作活動へと駆り立てる何かがある、ということも、何か納得できるような気がした。

 

私は色々な縁によってこの町に引き寄せられたのかもしれない。全くの自分の思い込み、あるいは勘違いかもしれないけれど、そう思った。昨今のパリ及びニースでのテロ事件で、日本人観光客の数はめっきりと減ってしまったらしいけれど、そんな折にこの町を、西アフリカから訪問することになったことに、何かの縁を感じてしまう。セネガルに来たことにまず縁を感じるから、人生は本当に不思議だと思う。

 

こうして今生きていて感じる縁を大切に、そしてその糸が切れないように、その糸をつむぎ、織り込み、やがて強固で美しい布を織り込めるように努力して、縁をより一層引き寄せられるように頑張っていきたい。今ここに生きる幸せを噛み締めながら、一歩一歩。気持ち新たに。悲観しそうになる自分がやって来たら、別の見方も可能なのだ、ということを、心に留めて。

 

追伸

アルルのギャラリーで展示されていた作品はLucie Jeanという作家のものでした。

http://www.lucie-jean.com

 

闘技場から臨むアルルの町

 

写真ギャラリー

 

古い建物の中はアートギャラリーとして使われていた。

 

夕刻の川。

 

古代ローマ闘技場。

犠牲祭。

12日、セネガルではタバスキと呼ばれるイスラム教の犠牲祭がありました。この日、セネガルでは多くの人が羊をさばき食します。一般的に、セネガルの人たちはお祭りのときにだけ肉を食します。

 

私も友人の家庭で羊肉をいただきました。私にとって二度目のタバスキでした。


Le 12, septembre était le jour de la fête du sacrifice d’Islam. Ça s’appelle ‘Tabaski’ au Sénégal. Ce jour-là,  beaucoup de personnes tuent les moutons, et ils en mangent au Sénégal. En général, les gens sénégalais mangent du la viande seulement à la fête. 

 

J'ai visité chez mon ami, et j'ai mangé du mouton. Pour moi, c'était la deuxièm expérience de la fête Tabaski.