Un poisson rouge -63ページ目

頼るもの。

こんな言葉が浮かびました。

「志を持ち続けなさい。やり続けなさい。馬鹿にされたって、構わないじゃない。きっと馬鹿にする人たちは、この幸福を知らないの。それか、そんな風にむき出しのあなたへの嫉妬心から、なのよ。」

年齢のこと、人にどう見られるか。
色んな言葉や反応がこだまするけれど、最終的には、自分の心の奥深いところから、湧き出てくる、小さな、小さな音を頼りにすること、なのだと、思う。

呼んでいるものを頼りに、追いかけなさい。
信じてやり続けなさい。

そんな風に呼びかけられている気がするの。

星の時間。

心がざわざわする夜は、

屋上に行って、星を見上げるの。

そうすると、本当に不思議なくらい、
心がすっきりとするのよ。

ずっとずっと、地平線まで、平坦な土地が続いている。

町だから、もちろん建物はあるけれど、空が隠れてしまうような、大きな建物はない。

暗い夜には、民家や、少しだけある店の看板の明かりや、街灯の明かり、車のヘッドライトの明かりが、ぽつ、ぽつ、ぽつ、きらきら、と、光っているの。

車が、砂の道に、タイヤの跡を残してゆっくりと進んで行くのが、そのヘッドライトの明かりで見える。

昼間の太陽の熱とは裏腹に、頬や腕を滑っていく夜の風は、とても、ひんやりとして清々しい。

ふと、わたしは、
死ぬときは、人間はひとりなのかもしれないけれど、
寂しくはないかもしれない、と、思う。

この地球の上で死を迎えるならば、
それは地球という素晴らしい星、美しく、大きな家である、この大地に抱かれて死を迎えるということを意味するのだから、
きっと、不思議と寂しさは感じないのではないか、と、思う。

人は、社会は、変わっていくけれども、
それと同時に、星の光はずっと私たちを照らし続けている。

だから、きっと、慌てることなんて、ないの。

悠久の星の時間が、いつもそこにあると思えば。

事実。La vérité.

ときどき、全てを俯瞰してみたい衝動に襲われる。

そんなことは、きっと不可能なのだろうけれど。

しかし、そもそも、「全てを俯瞰」とは一体何なのだろう。

そうでないとしても、よく言われる「メタ認知」という視点を持つことには意味があるように思う。

自分自身の置かれた状況を、空の遥か上から、鳥になったような視点から、眺めているような、客観的な認識。

そんなことを書いていながら、このセネガルの地の友人の、全く虚のないむき出しの、開けっぴろげの、何より、本当の意味での、無償の優しさ、親切に、私は日々驚きと有り難み、そして、どうしてか、少しの後ろめたさにも似た痛みのようなものを感じていることを、自認している。

単純に、物事を余計なレベルまで考えているのかも、しれない。

俳優、という職業に就いている人たちは、
俯瞰的な視点を持っているのだろうか。

私はどこまで俯瞰出来るのか。

「相手と自分をもっと切り離して考えられるといい」

そんな風に、ある人から言われたのだ。

ああ、確かにわたしには、相手と自分を切り離すことに困難のようなものを感じるときがある。

そう思った。

距離感というものは、単純ではないな。

それはとても、ある種、繊細なものなのかもしれない。



久しぶりに会った友人は、日本の地震を心配してくれていました。

私の母の病気のことも。

こんな人たちが、アフリカの西端の、砂地の地方都市に、確かに、今現在、いるのです。

ありがとう。やさしいあなた。