倫理的選択のこと。
人の生きる道というのは、いつも倫理的選択の上にあるのだと思う。
普段は、そんなことあまり意識しないけれど、
ふとしたとき、そのことを思い出す。
私の場合、自分がこうだ、と思って、やり始めたことや、やっている目の前のことに、割と没頭してしまいやすいタイプで、且つ、没頭することを心地良いと思っている節もある。
没頭するということは、しかし、周りが見えなくなる、ということでもある。
久しぶりに友人たちと連絡を取ったりすると、自分の周りの見えていなさが、浮き彫りになることがある。(と、いう風に自分は思うのであるが、実際に、友人たちが本心でどのように感じているかは、分からない。)
そんなときに、はたと思う。
私のそういった、没頭しやすい性格や態度というものは、倫理的にいかなるものなのだろう、と。
きちんと、周りに目と気を配れていたのだろうか。
そういうことは、本当は日々、考えるべきことなのではないだろうか。
倫理的選択というものは、本当は常日頃存在している。どんな場合でも。しかし、それを忘れて過ごしているのだと思う。
だからこそ、立ち止まったときに、それを徹底的に考えるということには、人間的成長、ひいては、人類的な成長に対して、意味があることだと思う。
うまく言えないけれど、要するに、自分が、こうだと思っていること、当たり前だと思っていることを、一度疑ってみる態度や、客観的にそれを捉え直してみる態度のこと、である。
一呼吸置いて、自分の行動や言動を、客観的に捉え直してみる。
そういった態度というのが、大事なのではないかと思う。
そしてその上で、何が最も倫理的な選択であるのか、ということを冷静に判断するということ。
それこそが大切だと、今日、悟った。
アフリカ帰りのつぶやき。
セネガルから帰国して、あっという間に1ヶ月が過ぎた。
帰国してから間もなくは、日本が逆に外国のように感じた。
全てが完璧で、選択肢が沢山あるこの国。
何でも、たとえばコンビニで売っているペットボトルのお茶ひとつとっても、選択肢がありすぎていちいち迷ってしまう。セネガルだったら、ものの選択肢はあまり無いので、迷うということもない。今考えればとてもシンプルだった。
何と言うか、
あの生活を経験した今、変な言い方かもしれないけれど、色んな意味でどこでも生きて行けるような気がしてしまって、私には切迫した危機感みたいなものが、無い。
セネガルでの生活は、時間がゆっくり流れていたとしても緊張感は常に何となくあった、と今考えれば思う。色々な物事が日本の社会のように整っていないから。乗り物に乗るときも、事故のリスクが頭によぎるし(車が古かったり、故障率も高く、フロントガラスが割れてスピードメーターが壊れていたりするので、事故も多い)、何かを食べるにしても、それが安全かどうかということはいつも何となく気になっている。(1年目の健康診断でお腹に虫がいたこともあって、余計に。苦笑)
でも日本にいると常に安心感があって(本当の意味では、いつ事故があるか分からないし、いつ死ぬかも分からないけれど、その切迫感が明らかに違う)、自分の緊張感が、薄くなっている、と思う。
あと思うことは、日本の社会は全てがシステマティックであって、融通が効かない、ということは思う。
それは誰のせいでもなく仕方がないのだけれど、セネガルだったら人に言ってお願いして何とかしてもらったり、何とか出来るところが、日本ではそうはいかないのだ、と改めて思う。組織は巨大であり、機械化されており、複雑であり、現場の人に何を言っても、仕方がないことは仕方がない。皆それぞれの持ち場で、守備範囲で、忙しいのである。
先日、ネパールに派遣されていた、駒ヶ根訓練所の同期隊員に会って話したのだけれど、
彼と話す中で、自分は、自分が何人であるか分からないような人になりたいのだ、という願望があるということを意識した。
私はすでにはみ出しているけれど、うまく言えないけれどもっと「日本人」を脱したい。笑。
私は留学の経験はないけれど、向こうにいるとき他の隊員に、「留学してた感」「海外にいた感」出てる、と言われて、してないよ、そうかな笑、なんて答えていたのだけれど、
それは自分の強み(?)というか特徴として考えて良いことなのかもしれない、とも思う。(してないのに。笑)
アフリカ帰りの人の、ひっそりとしたつぶやきでした。
知性。
何のために、というわけではなく、書きたいから、ただそれだけで、ブログを書いている。
(ほとんど独り言だけれども。)
女性も黒人の人もLGBTの人たちにとっても、さまざまな病気の人にとっても、「ガラスの天井」がない世界になれば良いな、と思っている。
あらゆる差別や偏見が、この世の中から無くなれば良い、と思う。勿論、私自身の中からも。
知性を身につけたい。そのための知性を。