Un poisson rouge -55ページ目

ことばで世界が広がる感触。

Saint-Louis、ウォロフ語でNdarという私の任地から7人乗り長距離移動車(7places、セットプラス)で1時間-1時間半くらいの町に、今月末のフランス語検定試験DELFの申し込みをしに行きました。

 

受付の人についついウォロフ語で話しかけてしまいそうになって、そうしたら彼はコートジボワールの出身の方で、ウォロフ語は少ししか分からない、と、流暢なフランス語で言われました。当たり前だけれど、この世の中には沢山の言語があって、異なる言語を母語とする人どうしには、共通の言語が必要で、そのためには、やっぱり国際的な言葉の役割というのは大きいのかな、とふっと思ったりしました。

 

しかしながら、ウォロフ語の基礎を3週間だけ詰め込んで、ポイとウォロフ語の生活空間に投げ込まれ(?)、何とかかんとか1年3ヶ月が経った今思うことは、分からない言語であっても、相手と顔を突き合わせて、相手が言わんとしていることを理解しようと相手の身振り手振り口ぶり、その全てを必死に受け取ろうとすれば、人間同士であるので、少しずつコミュニケーションはとれてくるものなのだなということです。

同期隊員が前言っていたことで興味深かったのは、九州出身の彼のおじいちゃんおばあちゃんの方言のことで、小さい頃おじいちゃんおばあちゃんをたずねると、最初はさっぱりおじいちゃんやおばあちゃんが何を話しているか分からないけれど、しばらく一緒にいると分かってくる、ということでした。そして、また一緒に過ごさなくなってしまうと分からなくなる、そう言っていたのです。

それって、人間がどう言語を習得するか、という所の、根本原理を言い表しているように思えます。

相手の言っていることを理解しようとしているとき、多分ほとんど無意識に、相手の表情、声色、どんな感情で話をしているか、ということを、察知しようと神経を集中させているのだと思います。だから、うまく言えないですが、言語って、言語だけではなく、その総合体なのかな、と思うのです。たとえいくつかの単語の意味が分からなかったとしても、その人の表情、その話がなされているシチュエーション、そういったことを総合的に判断すると、何となく相手の言わんとしていることって、分かることも多いと思います。これは、今セネガルで生活していて、ウォロフ語で分からない単語、言い回しが無限とある中でも、頓に感じることです。そして、結局は、人間同士であるということの中にある共通点が、それを可能にさせていると感じるから、とても不思議で、面白いことでもあるなあ、と思うのです。究極的には、人間であれば、コミュニケーションはとれるのだと思うのです。

無論、後から辞書を引いて調べる等の、教科書的な勉強が大事であることは言うまでもないと思うのですが、話すコミュニケーションにとっては、もう、自分を無にするくらい、とにかくその言語を話している「相手」に神経を集中させることが大切だなあ、と思うのです。そして、それを繰り返し、相手の言い回しを真似していくということ、それに尽きる気がしています。

 

と、いうことで、セネガルにいるのも、残り8ヶ月となった今、やっぱりウォロフ語もフランス語も、セネガルの人たちのように頑張っていきたいな、、、と思います。

なぜなら、やっぱり自分の知らない言葉を知るということはとても刺激的だし、その言語で人と話が出来る、ということは、私にとって喜びである、ということに気づけたからです。

色々な言葉で人とコミュニケーションをとれるようになったら、それだけ自分の世界も広がっていくような気がするのです。

だから、頑張りたいなって思います!

久しぶりの雨に。

雨季は終わったはずだったけれど、今日は久々の、雨。

しかも、セネガルではとても珍しいことに、雨季特有のスコールのような激しいそれではなく、しとしとと降る、まるで日本のような、雨。

 

曇った空を眺め、湿った砂地の道を歩み、雨に濡れつつ、涼しい空気を肌に感じ、日本の空気をふと、思い出す。

 

こういう雨の日は嫌いじゃなかった、と、思う。

自分の中にある雑音のようなものが減るのを感じるから。

 

洗濯しようと思ったけれど、必要なものだけ最小限洗うに留めた。

 

全く毎日かんかん照りだというのに、こんなタイミングで雨が降らなくても…と思ってしまう。

 

友人の家に寄ったら、頭に被るためのスカーフを貸してくれた。雨よけのためだ。優しさを受けとめる。ほのかに香水が香るスカーフ。

 

今日は心なしかいつもの風景がより鮮明に見えるような気がした。

 

そんなときの心持ちは、たぶん、大切にした方が良い、と思う。

 

 

 

歩きながら思う。

 

全てのことはベストなタイミングで起きている、と。

 

感覚を研ぎすませさえすれば、そのことに気づくことができるのだ、と。

 

自分次第。

 

それに気づかせてくれたのは、このセネガルに似つかない曇天だったのかな。

 

この国の人びとの持つ心の余裕は、人のつながりと、ゆるやかな時間の流れと、神のような人智の及ばない、大きな何かの存在を、常に感じようとしているから、なのかもしれない。

 

もっともっと、眠っている感覚を研ぎすまし、発揮して、高めていきたい、と思う。

出会いの意味。

気づいたら日付が変わるまで(セネガル時間)あと45分くらいしかなかった!汗

 

今日思ったこと。

 

人生は、そして人の想いや考えというのは、本当に十人十色だなあ、ということ。

 

沢山の人と出会うということは、色々なものの見方や考え方、視点を知ることで、それは自分の人生を豊かなものとしてくれるのだ、ということ。

 

出会いを大切にしながら、

出会った人に何か素敵なものを、与えられる人になりたいな、とそんな風に思う今日だったのでした。

 

そういう心の余裕を、持てる人でありたいなあ。