Un poisson rouge -151ページ目

学生諸君!(と言ってみる)の特権

学生の特権は、自分の会いたい憧れの人や素敵だと思う人(ちょっと有名人含む)に自由に会いに行けることではないかと思う。

いや、別に、学生じゃなくても良いんだと思うけれど、何となく、学業している、学んでいる身の人ってだけで、学びの協力のために、時間を割いてくれる人は多いんではないかと思う。

会いに来てもらった方は、よっぽど失礼のない限り、嫌な思いはしないだろう。

自分でアポをとらないとしても、素敵やーと思う人の出るイベントや講演会とか、何でも良いけれど、
ちょっと背伸びしてでも、そこに行くって大事だと思う。

憧れの人は現実世界にいる!って、実感するだけでも、すごいパワーをもらえる気がする。


私の文章はほんとにまとまりがなくて感情論で何が言いたいのかよくわからないかもしれないけれど(笑)、ひとまず、学生であるとき、人に会いまくることをお勧めする。
それは一生ものの財産になること、請負!


もちろん、学生じゃなくても!!

何かのためではなく、それそのもの。〈おのまとぺ〉

ときどき、「文字以前」を、「文字」にすることが面倒くさい。

面倒くさいというか、そういうものを上手に文字化して、人に伝わるかたちにする力量がないというのが正しいかもしれません。


わたしはほんとうに、面倒くさがり人間です。

自分でも困っているぐらいであります。



たとえば、ときには音に委ねるのも、いいんではないかしら、と思う。
ことばならば、音、響き。オノマトペ。


「何のため」「何故」
意味とか根拠とかばかり考えてしまうこの日常だけれど、

ときには意味から浮上すると、結構気持ちよいと思うのです。



人は音楽や絵や踊り、祭礼や儀式によって、きっとそういう空間を、日常の意味から浮上するための空間を、昔からつくってきたのではないかなと思う。

それは、祈りにも通ずる空間。

日常と非日常。意味と無。
精神と肉体。人間と自然。彼岸と此岸。現世と前世。
相対する二つのものの、境界。マージナルな、場所。


ことばも、意味だけのためじゃなく、
それそのものが、意味になることもある。

その音、その響き。

体系的に、生成され得ぬ、何か。



なあんてなあんて。とろろろん。←これ?(笑)

事実と実感。

人の幸せとは何だろう。

人によって、幸せは違う。

知らぬが仏、ということばがあるけれど、

知らせること、伝えることは、いくらそれが事実や、実感であったとしても、

相手に、痛みを与えることもある。

それを、最近とても考えてしまって、

思っていることを、なかなか人に話せなかったりする。

でも、ブログなら、いいかなと思って、少し、書いてみようと思う。





まず、ツイッター等さまざまな情報を見ていると、これから子どもを産むかもしれない身として、関東圏ではたらいていていいのか、と、本当に、わたしは今ここにいていいのかと、正直、考えてしまう。

それは、もちろん、原発のことであり、放射能のことだ。

本気で考え出すと、本当に、頭が変になりそうになる。

確実なことは、言えないけれど。でも、状況が良いとは、絶対に、誰がどう見ても、言えない。

状況が良くないのは、確実だ。

悲観論から楽観論まで色々あると思うけれど、

3月11日以前より、悪いことは確実。



微妙に、横目で見て、やり過ごしている、そういう自分。

家族も友だちも、

ほとんどが、関東にいるのだ。










そして、先日、このブログで、職場で、休職していた女子社員さんが、亡くなったという記事を書いたのだが、

彼女は、自ら命を絶った、ということを知った。


ショックだった。


自分と、さほど歳は変わらない。わたしの兄より、年下である。


頭が、ぐらぐらする。


日本という社会について考える。

日本の社会は、心を病んでいる人が、あまりにも多い。

自ら絶たれてしまった命が、一体いくつあるのか。

生きてほしかった。

死んでほしくなかった。

でも、自分にも、誰にも、それを止めることができなかったのだ。





止めることは、できなかったのだろうか?






こんなことはできれば、言いたくはないけれど、

たぶん、今の日本社会ならば、

誰にでも起こりうる、と思う。


彼女ではなくて、わたしだったかもしれない。


そう思う瞬間が、実感としてあるからこそ、起こってしまった事実が、とても、ショックだった。



何が言えるわけでも、何ができるわけでもないけれど、

でも、何かが、確実に、おかしいという感覚がある。

この社会は、確実に、健全さを、失っている。

そう、思えてならない。





去年、「市民のしごと」という勉強会で、お話をお聞きした、加藤哲夫さんも、
歳若く、最期まで闘病されながら、亡くなられた。


加藤さんのエネルギーに、思いに、少しでも触れ、そして直接お話できたことは、とてもとても、貴重な経験だった。

加藤さんの社会に対する熱意は、半端なものではなかった。





加藤さん、ほんとうにありがとうございました。





ただただ、日常の仕事をこなし、大切なことから目をそむけて、ストレスから逃れるために、自分が楽しいと思えることを、追い求めて、

ただただ、そうやって日々を過ごしてしまっている、自分がいる。


でも、その日常は、正気と正気でない自分との間で、何とか保たれている脆いもののような気がする。


ときどき、ほんとうに、言いようのない苦しみで、自分が保てなくなりそうになる。








ああ、何だろ、

たぶん3月11日という日からは、

東北の人をはじめとして、

日本にいる多くの人が、怒涛の日々を過ごしたのだろう。

日本だけじゃなくかもしれない。

日本に家族がいる海外の人も。



震災だけではないけれど、

自分としては、ちょっと怒涛すぎて、驚くというか、何というか。



ふう、落ち着け(笑)



ひとまず、今、息をしていることに、


感謝。