世界は中立に存在しているから、それをどう見るかは、選べる、ということについて。
私は今日、猛烈に言いたいことがあります。笑
それは、この世の中は、世界は、いつも私たちにとってニュートラル(中立)だということ。
自分に投げかける無数の言葉が、自分の思考を形成し、それはそのまま、それがあたかも唯一無二の現実であるかのような錯覚を起こすことがあると思います。
「私が駄目だから、物事がうまく進まないんだ」とか
「どうせうまくいかない」とか
「こんなにやったのに何も物事が進展していないなんて最悪だ」とか
「もう何をしても無駄だ・・・」とか
色んなネガティブな言葉を、自分でもほとんど知らず知らずのうちに自分に対して投げかけ、そしてそれがほとんど知らず知らずのうちに自分の思考となり、ひいてはそれが自分にとって唯一の現実であるかのように錯覚してしまい、もうそのネガティブ思考の穴の中から抜け出せないように思ってしまうときが、正直私にはあります。
でも、ふと、力を抜いて、そんな状態を、空の上から客観的に見るような感覚で、自分を一歩引いた視点で見てみたとしたら、
それは「唯一無二」の変えられない現実でも何でもない、ということが分かると思うのです。
この世界に生きているのは、自分だけではない、ということは、明白なこと。
ということは、すなわち、私というこの個人が考える狭い狭い現実が、唯一無二の現実ではない、ということが言えます。
現実は、沢山存在している。
家族のメンバー、友だち、近所の人、野良犬、鳥、牛(セネガルの場合)にだって、それぞれの現実がある。
そのことに気づくということは、自分を救う手段でもあると思うのです。
それを踏まえた上で、世界は、自分自身にとっても、勿論ほかの人にとっても、ニュートラル(中立)な状態で、存在していると、思うのです。そのニュートラル(中立)な世界を、どのように見るかは、その人が自由に選びとれるということ。
世界が、在る、すなわち、生きている、ということだけだって、考えてみたら、不思議で、何より奇跡的なことですが、
更に、その世界をどう見るか、ということは、選べるのだと思うのです。
だから、この広い広い世界の、素敵な部分を見つけたら、
それは、素敵な現実として、自分に訪れる。
素敵なことに目を向けてみたら、この世界は、素敵な所になる。
そして、ほかの人の視点、世界の見方を知ったら、それは自分が抜け出せない穴に陥りそうになったときに、自分を救ってくれるかもしれない。そして、自分の人生を豊かにしてくれる。
そう気づいたら、もう、この世界に、感謝せざるを得ない、と思いました。
セネガルの人たちは、とても陽気で、人に対する垣根がない人が多いと日々感じていますが、
今日、道端で話しかけられた人とちょっと立ち話をしたら、私が行こうとしたときに、おもむろに私のために祈ってくれました。(ここでは神様というものが、身近な存在であるように私は思います。)
見知らぬ通りすがりの私のために祈ってくれる、そんな素敵な心、見習いたいですね。
物事が難局である、と思うときほど、
この世界に感謝したら良い。
私は今日、そのことに気づけました。
無数の人や生物が生きる、この世界に感謝。
馬車のおじさんの切り返し。
今日、馬車に乗ったときに、馬の手綱を引いて白馬を操る運転手のおじさんに、
「馬可愛いですね」という意味のウォロフ語を言ったら、
運転手のおじさんは、
「あなたの方が可愛いよ」と、ウォロフ語で返答してくれました。
おじさんの切り返しに、色んな意味で脱帽でした。笑。
自分と社会にとって意味のあることとは、という問い。
今日、学校にいるときにふと、本当の意味で社会に貢献するって、どういうことなんだろう、と考えた。
それは生きる意味を考えることにも通じると思うけれど、
自分も意味を見出しながら、社会にも貢献出来ることって、どういうことなのだろう、と。
自分の働きが、社会に貢献しつつ、自分にも意味のあること。
それはある意味理想的なものだ。
最初からいきなり理想を目指すというのは違うのかもしれない。
いつも人生は、理想と現実のせめぎ合いだから、辛いことも多いのだけれど、
きっとそこで諦めてはいけないのだろうな、と思う。
そして何よりポジティブでいることだ。
ネガティブでいるということはある意味簡単なことで、
誰でもすぐに出来ると思う。
だから、私は敢えてポジティブでいることを「選び」「実行」したいと思っている。
その先に、
自分と社会にとって意味のある、自分の立ち位置というものが、見つかるかな、と
今は思っている。