Un poisson rouge -11ページ目

小さくても意味のある世界。何気ない日々にありがとう。

ほんの少しの人であっても、

もしかしたらたったひとりの人であっても、通じ合えることができたら、そこに意味が生まれるのではないか。

小さな世界かもしれないけれど、狭く、深く、と言ったらいいか。

 

そんな風に思う。私の、今回の人生は、そんな感じなのではないかと。

 

小さくても意味のある世界。それを大切にしたいと思う。

 

穏やかな日曜日。

こんな日曜日を経験するのも、任地では残りあと1回となった。

 

最早私にとっての日常の風景となった、セネガルの人たちの日常の風景。

 

エモーショナルになったら、止めどなくエモーショナルは続き、前に進むのが難しくなるので、

意識的に、客観的でいることを覚えた。

 

アフリカの地方都市の、鳥のさえずりと人々の声。

何気ないこの日々にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉。

自分にとって、最も切実なことというのは、基本的に、自分が一番よく分かっている、のではないかと思う。自分でも自覚のない、切実なこと、というのも、あるのかもしれないけれど。

 

自分にとって最も切実なことは、簡単に人に話すことが憚られるようなものではないかと私は思う。

少なくとも、そういう感覚を今私は持っている。

 

人生には、「扉が開く」瞬間がいくつかあるような気がする。それは何度も訪れるものなのかどうか、まだ、そうだ、という確信が持てているわけではない。

しかし、確実に、「扉」は存在する、と思う。自分が最も切実だと感じるものに触れる、その切実な何かが顔を出す「扉」が。

 

その「扉」は、今までの自分が見たこともなかった、体験したこともなかった世界を垣間見せる。それは自分が今まで生きていた安全地帯とは異なる場所だ。触れたことのない、未知で、新しくて、容易には理解できないような世界。

 

私は、自分の人生に今まで訪れた「扉」のことを考える。あれは何だったのであろう。自分でもよく理解できていないまま、流れるようにそこに辿り着いた。自分で行動した結果現れた「扉」だけれど、果たして自分の意志でその「扉」と出会ったのだろうか。人生はどこまで自分の意志で、どこまでが自分の意志を越えた何かによって動かされるのだろう。疑問は尽きない。けれど、その「扉」は、確実に、私という人間に大切な何かを伝えようとしていたのではないか、と、振り返る。

 

「扉」の存在を忘れていたわけではないけれど、

セネガルに滞在する時間が刻一刻と減っている今、「扉」の存在が、また自分の中で大きくなりだしているような気がする。

 

「扉」を無視して生きることは、きっとできない。時間がかかったとしても、そこに何らかの形で、関わっていくべきなのかもしれない、と考える。

 

抽象的な話しでゴメンナサイ。

 

もう少し、「扉」の方向を、私は追いかけてみたいのだと、思い始めている。

 

 

裏切らないってなんでしょう。

裏切らないってなんでしょう。

 

それは、自分の好きなものを信じることだと思います。

 

ということは、自分の感性を信じるということだと思います。

 

ということは、結局、自分を信じるということだと思います。

 

自分の好きなものや、これは素晴らしいと思うものが自分で分かっていて、

それを信じることができるというのは、とても大切なことだと思います。

 

だから、素晴らしいと思うもの、好きだと感じるものを、

信じていきたいと思います。