Un poisson rouge -116ページ目

さまざまなレベル

物事というのは、いつも色々なレベルで進行している、と思う。

これをうまく言葉で表現する力量を私は今持ち合わせていないけれども、

人の人生で言うならば、今自分はどのステージにいる、という感覚がある一方で、
その日、そのときに、たとえば今日はどんな服を着よう、何をどこで食べよう、といった選択をすること、そしてその、選んだ服ひとつ、もしかしたら、身につけるアクセサリーひとつでも、人に与える印象が全然違ってしまったり。

多分、小さなことも、大きなことも、両方が大切なのであると思う。

とても上手には言い表せないけれど。。。

自然界で言えば、大陸が動いていくことや、
氷が溶けていくこと。
それは長いスパンで、ゆっくりと進行していくことだけれど、
その長い時間の流れの間にも、木の実は落ち、それを動物が食べたり、蟻が列をなしてえさを巣に運んだり、鷹がネズミを捉えたり、そういう営みは日々、何時間、何分、何秒という単位でなされている(その単位は人間がつくったものであるけれど)。
クモの巣に雨のしずくが引っかかったり、川面に渦ができたりもしている。

マクロとミクロの物事は、重層的に蠢いている。

そのどちらもが、世界を作っているのだ、と思う。

分かることは、少ない。

分かる、ことの方が少ない。

27年間生きた結果、今の自分が実感として思うこと。

そう、物事は分からない。

自分が今、ここで感じていること。
あえて言うならば、それこそが「分かること」なのかもしれない。

分かることの方が少ないのだと考えていれば、人間は謙虚になることができる。
私はそんな風に思う。

人生は、長く見えるようで、短い。
「何かを分かろうとする」上では。

何かを分かるには、とても短い。と、思う。
だから、この限られた時間を有意義に、
分かりきる、なんていうことは、もしかしたら無いのかもしれないけれど、
分かりたい、そういう気持ちがあるのならば、
そのために、時間をかけるべきなのだろうな、
そんな風に思います。

瓶(かめ)

具合が悪くて、昨日仕事を休んだ。

具体的にどう具合が悪い、というのが難しかったけれど、
気持ちが悪く、頭痛もした。
その日起きて覚えていた夢も、口に出すのが憚られる程、悪夢であった。

そして何より、「瓶が一杯」である感じがした。
頭が一杯で、到底何も考えられない、という状況であった。
これ以上、何かを考えたら頭がパンクする…そういう風に思って、
限界であると判断した。

自分の判断は間違っていなかったと思う。

私の瓶はそんなに大きくないようだ。

身体の面もそうだけれど、精神的な面が大きいように思う。

昨日は、極力、自分の中に情報を取り入れるのを避けた。
情報を取り入れるとまたそこから脳が回転し、精神に何らかの影響が及ぶと思ったためだ。
そのくらい、本当に何も考えられないし、考えたくない状況に陥っていた。何もできなかった。

インプットとアウトプットのバランス、それもあるだろう。
インプットが多く、アウトプットがその割にはあまり出来ていなかったのかもしれない。
普段から、ものを必要以上に考えてしまう向きはあるので、インプットをし過ぎると瓶がキャパシティを超えて、何も考えられなくなるのかもしれない。。フリーズしたPCのように。。

ツイッターで、「周りが全員松岡修造に見える」ということばをつぶやいている人がいたが、
正にそのような感覚であった。
周りが全員超人で、私だけが駄目人間。

普通の人が普通に出来ることが、私にだけ出来ない。
仕事や、予定やメールやLINE等々を正確に処理し、マネージメントし、優先事項を順序立て、きちんと毎日を生きること。
私のキャパシティはそれをするのにすら足りていない、と。

普段から自己評価は高くないし、むしろ本当に酷い奴だな、と自分のことを思っているのだが、それでも、人は人、自分は自分、と、かなり自分は「変」であると(勝手に)自覚をしている私は、自分は変人でオッケー、とどこかで自己弁護して生きていたように思う。

しかし、ときどき、頑張っても頑張っても、到底自分は人並みに及ばない。
何て駄目人間なんだろう…という感覚は、やっぱり襲ってくる。
自分の存在が無条件に肯定されるということ、それは希有なことなのだ、とこの歳になって思う。
私は誰かの価値観を生き、そうしろと言われた通りにしなければならない。多かれ少なかれ。
人間という生き物に対立がついてまわるものなのだとしたら、そういう従と属のような関係性はあって当然、人の歩んで来た歴史の中でそういったものの無かったこと等、かつて一度も無かったのかもしれないけれども。
従属や支配と被支配。そういったことは知らず知らずのうちに自分の中のテーマとなりつつある。。
そうではない関係性とは、一体どういうもので、それは、あり得るのだろうか。


でも、冷静に考えてみれば、自分の思い込みによって周りと自分を比較するような思考回路は歪んでいる、ということも分かっている。
他者と自分を比較したところでどうにかなることでは、ない。
自分を見下すこと=他者を見下すこと、である。歪んでいるではないか。

その歪みを是正することこそ大切なのである。
視点の歪みを。

孤独は大切だと思う。
人は群になると、自己をコントロールできなくなる、ということはよくあると思う。
自らでもよく分からないパワーが働くのだ。それが良い方向に働けば良いのかもしれないけれど、
良くない方向に行ってしまうと、取り返しのつかない事態にもなりかねない。
東京電力という会社の中にだって、きっとそういうパワーが働いていたのだ、と思う。
私が、もし東電の社員だったとしたら、あのような事故が起きるということに、途中で薄々危機を感じたとしたら、そこで何か行動を起こせただろうか?
それは実際には、もの凄く難しいことではないかと思う。
だからいつも視点をクリアーにしていなければならない。。

日常は、いつも問いで溢れている。
いつもそういう究極の問いを投げかけられている。
そんな風に思う。


だから、システムと、個人としての自己の距離感を、どう保つのか、ということは重要だと、私は思っている。

しかしながら、SNSやビッグデータのご時世、自分の言動や行動は常に監視の目に晒されている、と言っても過言ではないかもしれない。
システムと個人。またこれを考えだし、疑いだすと、止まらない・・・

自分の考えていることは、世の中のピースフルな感覚と、もの凄くかけ離れた所に居て、
人間の負の面(つまりは自分の負の面)ばかりに目が向いてしまうようで、それはそれでまた凹むのですが。。


どうにもならないこと、というのは、生きている限り絶対にある、と思う。
たたかわなければならないことも沢山ある。常々。


自分のことについて言えば、甘えたり、辛いときに辛いと言うこと等が、苦手である。
その辺りのことをもう少しうまく出来るようになれば良いのかもしれない。
助けを求められる能力というのも、きっと大切なことだ。また、取捨選択も。。


私はとにかく器用ではなく、流されやすい。
そして、弱い。自分の弱さを心底自覚した。
心身ともに。

瓶のバランスは大事なんだなあ、と思う。

だからこそ、多くを望まない、ということが大切なのかもしれない。
ときには情報を遮断することも。