クラウドファンディング応援中です
インドのストリートの子どもたちと、
福島の子どもの交流ツアーの費用を、クラウドファンディングにて応援しております☆
Motion Galleryというクラウドファンディングサイトに、2014年1月12日まで掲載中です。
詳しくはこちらをご覧下さい⇩⇩⇩
https://motion-gallery.net/projects/bornfreeart
あの三宅洋平さんも、こちらの企画に応援メッセージを寄せて下さっています⇩
https://motion-gallery.net/projects/bornfreeart/walls/3992
よろしくおねがいします
応援ぼしゅうでしたっ。
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スタンス・スタンス・レボリューション
体力的であったり、物理的な制限は、
ああいう風になりたいなあ、こんなことがしてみたいなあ、という欲望を、ときどき阻んできて、それはもう、どうしようも無いときも、ある。いくら気力があっても、たとえば身体が健康では無かったら、その夢は、諦めざるを得ないときも、人生にはある、と思う。
しかし、ではそういった時に、できることがあるとすれば何だろう、と考えてみたら、
それは、何らかの形で、自分のスタンスを示す、ということではないかと思う。
自分自身の状況に制限があったとしても、人に対して自分のスタンスを示すことで、
もしかしたら、どこかでそのスタンスに、何らかの反応を示してくれる人がいるかもしれない。
自分が現状、物理的に出来ないことであったとしても、関係することを教えてくれたり、自分の代わりに、それを行ってくれる人が、いるかもしれない。
諦めることなく、出来る範囲でも、文字や言葉や態度、様々な表現方法を用いて、
スタンスを示すことは、重要なのだと思う。
ダンスが、物理的に出来ない状況でも、
何らかの形で、自分のスタンスを示すことは、きっと出来る。
そう、正に、「スタンス・スタンス・レボリューション」である。
ああいう風になりたいなあ、こんなことがしてみたいなあ、という欲望を、ときどき阻んできて、それはもう、どうしようも無いときも、ある。いくら気力があっても、たとえば身体が健康では無かったら、その夢は、諦めざるを得ないときも、人生にはある、と思う。
しかし、ではそういった時に、できることがあるとすれば何だろう、と考えてみたら、
それは、何らかの形で、自分のスタンスを示す、ということではないかと思う。
自分自身の状況に制限があったとしても、人に対して自分のスタンスを示すことで、
もしかしたら、どこかでそのスタンスに、何らかの反応を示してくれる人がいるかもしれない。
自分が現状、物理的に出来ないことであったとしても、関係することを教えてくれたり、自分の代わりに、それを行ってくれる人が、いるかもしれない。
諦めることなく、出来る範囲でも、文字や言葉や態度、様々な表現方法を用いて、
スタンスを示すことは、重要なのだと思う。
ダンスが、物理的に出来ない状況でも、
何らかの形で、自分のスタンスを示すことは、きっと出来る。
そう、正に、「スタンス・スタンス・レボリューション」である。
出産や育児に関して。
最近、年齢的なこともあり、結婚や出産を迎える友人が自分の周りには多い。
友人たちの話を聞いていて浮かび上がってくること、それは、
出産する側=女性が、出産に対して何らかのプレッシャーや、不安を抱えているという意見である。
プレッシャーを感じるという時点で、それは女性に対する負担が大きい、ということであり、
少子化の問題視されている日本で、一体何故そのような状況をよく耳にするのか、と疑問に思う。
私は出産や育児というものが、産む側=女性にばかり負担がかかる、という事に対して、怒りとともに強い懸念がある。
自分の父親は、所謂高度成長期とバブル期が、最も働き盛りの年齢であった世代である。
言うまでもなく、経済は上り調子、そして、朝も夜も無く働くことが「良い事」とされるような価値観が、日本社会全体を覆っていたのではないかという推測がつく。
そんな父親に対する自分の印象を率直に述べれば、
普段は遅く帰ってきて仕事のストレスを家庭に持ち込み吐き出し、無論子どもの普段の様子等知る由も無く、家事はほぼ全て母親任せ、そして休みになるとかなり独裁的にいきなりわけの分からん国や場所に連れていかれる。今、回想してみるとこのような感じである。
父親と触れ合う機会は、母親に比べて圧倒的に少なかった。
しかも何だか非常に独裁的で、機嫌が悪いとすぐ怒るので怖くて謎な存在であった。自分の親であるのに、どこか他人であるような感じもした。
自分の家庭では、父親は子どもの生活を、子どもは父親の生活を、互いに全く理解していなかった、と今振り返れば思う。
そして、コミュニケーションが少ない、ということは、互いの誤解を生む原因となる。
あくまで私の意見であるが、大人と子どもは、特に小さい頃は、コミュニケーションを密にした方が良い。
会社で、妻子のある人で、仮にそんなに残業をしなかったとしても、そのまま飲みに直行し、それをほぼ毎日繰り返しているような人もいる。
そういう人は平日はほぼ子どもと触れ合っていないのではないかと思う。そして触れ合っていないのにも関わらず、子どもは言うことを聞かない、などと言う。私からすれば、それは当然である。触れ合っていなければお互いの理解を深めることも出来ず、言うことを聞けるわけがない。そしてそもそも子どもは、言う事を聞かすための存在では無い。
ここでラディカルな仮説を挟んでみます。
私は、クローン技術のような技術が存在する今の世の中で、男性が妊娠する技術が開発されるのは、そう遠い未来ではないのではないかと思う。もしくは、実はそういった技術は既に開発されていて、しかし、何らかの政治的理由や、宗教的理由によって、その事実が隠され、明るみに出ていない、ということは、無きしも在らず、ではないか。
アーティストのスプツニ子!が、何かのインタビューの中で、日本では、バイアグラに対する認可は数ヶ月で下りたのに、女性用ピルの認可には9年かかった、というようなことを述べていた。
自分にとって、それは結構衝撃的なことであった。宗教的な理由等の反対があったという。
しかし、明らかに、客観的に見て、そこにはジェンダーの不平等が存在している。
「少子化対策」という目標が掲げられて久しい日本。
しかしそれは「誰による」「誰に対しての」対策なのであろうか?
「女性手帳」という「対策」の一部なのか何なのか、一体あれは何だったのだろう、と人々の記憶からも既に薄れつつあるかもしれない、「対策」があったけれど、あれは、仮にも政治家の人たちが、ある程度の時間をかけて考えだしたものなのであろう。しかし、あまりにも、的外れである。
そこには、出産や育児は女性に責任がある、という偏った思想が、その名称に如実に表れてしまっている。私にはそう思えてならない。
しかし、「女性手帳」に代表されるような価値観は、仮にも先進国である日本において、前近代的且つ保守的な代物であるように見えて、残念ながら結構そこら中に蔓延っているように思う。実際にそういった話はよく耳にするし、全く珍しいことではない。
しかし、この「女性手帳」的発想を転換しない限り、日本は、その目指すところである経済成長すら危ういという根本的な部分に、もっと多くの人が気付くべきだと思う。(経済成長、という概念自体の善し悪しは別にして、それをひとつの、社会の発展の指標として目指すのであれば。)
女性を闇雲に擁護する、というような立場ではなく、客観的に考えて、女性は立派に労働人口に加えられるべき存在であり、経済的な意味でも、その能力を生かさない手は無い。そのためには、多様な働き方、子育ての在り方が不可欠である。
「女性手帳」等という的外れなことを宣っている場合では全く無い。真剣に頭脳を使うべきときである。
てか、
前提としてそもそも、別に「女性と男性」というカップルだけがカップルであるわけでは無い。ゲイでもレズビアンでも、性別の枠等関係なしに、人が人として幸せに生きられることが大切であると思う。
結婚する選択肢もあれば、しない選択肢もあるし、生む選択も生まない選択も、家庭の在り方、生き方自体が、多様であって良いはず。
現状は余りにもそれが偏っていて、価値観が固定化されている上、その遺物がなかなか変わっていかないという困った状況である。
私個人が、一体何が出来るのかは分からないけれど、
疑問は口に出し、おかしい、と思うことには意見を述べるという、基本的であってもなかなか出来ないことを、ひとまず出来るようにしたい。意見を言い声を出す訓練をしていきたいと思う。
思ったことを口に出さねば、声を出さなければ、何も始まらない。
秘密保護法が可決された今であっても、仮にも、日本は民主主義の国であって、
ひとりひとりの人間には、自分の思ったことや意見を、自由に表明できる権利がある。
小さな声でも、声を、出そう。
メリークリスマス
友人たちの話を聞いていて浮かび上がってくること、それは、
出産する側=女性が、出産に対して何らかのプレッシャーや、不安を抱えているという意見である。
プレッシャーを感じるという時点で、それは女性に対する負担が大きい、ということであり、
少子化の問題視されている日本で、一体何故そのような状況をよく耳にするのか、と疑問に思う。
私は出産や育児というものが、産む側=女性にばかり負担がかかる、という事に対して、怒りとともに強い懸念がある。
自分の父親は、所謂高度成長期とバブル期が、最も働き盛りの年齢であった世代である。
言うまでもなく、経済は上り調子、そして、朝も夜も無く働くことが「良い事」とされるような価値観が、日本社会全体を覆っていたのではないかという推測がつく。
そんな父親に対する自分の印象を率直に述べれば、
普段は遅く帰ってきて仕事のストレスを家庭に持ち込み吐き出し、無論子どもの普段の様子等知る由も無く、家事はほぼ全て母親任せ、そして休みになるとかなり独裁的にいきなりわけの分からん国や場所に連れていかれる。今、回想してみるとこのような感じである。
父親と触れ合う機会は、母親に比べて圧倒的に少なかった。
しかも何だか非常に独裁的で、機嫌が悪いとすぐ怒るので怖くて謎な存在であった。自分の親であるのに、どこか他人であるような感じもした。
自分の家庭では、父親は子どもの生活を、子どもは父親の生活を、互いに全く理解していなかった、と今振り返れば思う。
そして、コミュニケーションが少ない、ということは、互いの誤解を生む原因となる。
あくまで私の意見であるが、大人と子どもは、特に小さい頃は、コミュニケーションを密にした方が良い。
会社で、妻子のある人で、仮にそんなに残業をしなかったとしても、そのまま飲みに直行し、それをほぼ毎日繰り返しているような人もいる。
そういう人は平日はほぼ子どもと触れ合っていないのではないかと思う。そして触れ合っていないのにも関わらず、子どもは言うことを聞かない、などと言う。私からすれば、それは当然である。触れ合っていなければお互いの理解を深めることも出来ず、言うことを聞けるわけがない。そしてそもそも子どもは、言う事を聞かすための存在では無い。
ここでラディカルな仮説を挟んでみます。
私は、クローン技術のような技術が存在する今の世の中で、男性が妊娠する技術が開発されるのは、そう遠い未来ではないのではないかと思う。もしくは、実はそういった技術は既に開発されていて、しかし、何らかの政治的理由や、宗教的理由によって、その事実が隠され、明るみに出ていない、ということは、無きしも在らず、ではないか。
アーティストのスプツニ子!が、何かのインタビューの中で、日本では、バイアグラに対する認可は数ヶ月で下りたのに、女性用ピルの認可には9年かかった、というようなことを述べていた。
自分にとって、それは結構衝撃的なことであった。宗教的な理由等の反対があったという。
しかし、明らかに、客観的に見て、そこにはジェンダーの不平等が存在している。
「少子化対策」という目標が掲げられて久しい日本。
しかしそれは「誰による」「誰に対しての」対策なのであろうか?
「女性手帳」という「対策」の一部なのか何なのか、一体あれは何だったのだろう、と人々の記憶からも既に薄れつつあるかもしれない、「対策」があったけれど、あれは、仮にも政治家の人たちが、ある程度の時間をかけて考えだしたものなのであろう。しかし、あまりにも、的外れである。
そこには、出産や育児は女性に責任がある、という偏った思想が、その名称に如実に表れてしまっている。私にはそう思えてならない。
しかし、「女性手帳」に代表されるような価値観は、仮にも先進国である日本において、前近代的且つ保守的な代物であるように見えて、残念ながら結構そこら中に蔓延っているように思う。実際にそういった話はよく耳にするし、全く珍しいことではない。
しかし、この「女性手帳」的発想を転換しない限り、日本は、その目指すところである経済成長すら危ういという根本的な部分に、もっと多くの人が気付くべきだと思う。(経済成長、という概念自体の善し悪しは別にして、それをひとつの、社会の発展の指標として目指すのであれば。)
女性を闇雲に擁護する、というような立場ではなく、客観的に考えて、女性は立派に労働人口に加えられるべき存在であり、経済的な意味でも、その能力を生かさない手は無い。そのためには、多様な働き方、子育ての在り方が不可欠である。
「女性手帳」等という的外れなことを宣っている場合では全く無い。真剣に頭脳を使うべきときである。
てか、
前提としてそもそも、別に「女性と男性」というカップルだけがカップルであるわけでは無い。ゲイでもレズビアンでも、性別の枠等関係なしに、人が人として幸せに生きられることが大切であると思う。
結婚する選択肢もあれば、しない選択肢もあるし、生む選択も生まない選択も、家庭の在り方、生き方自体が、多様であって良いはず。
現状は余りにもそれが偏っていて、価値観が固定化されている上、その遺物がなかなか変わっていかないという困った状況である。
私個人が、一体何が出来るのかは分からないけれど、
疑問は口に出し、おかしい、と思うことには意見を述べるという、基本的であってもなかなか出来ないことを、ひとまず出来るようにしたい。意見を言い声を出す訓練をしていきたいと思う。
思ったことを口に出さねば、声を出さなければ、何も始まらない。
秘密保護法が可決された今であっても、仮にも、日本は民主主義の国であって、
ひとりひとりの人間には、自分の思ったことや意見を、自由に表明できる権利がある。
小さな声でも、声を、出そう。
メリークリスマス