大学という存在を通して、少し、学ぶことや問うことについて、考えてみました。
何故、何のために。
その問いを突き詰めて考えてみることはとても大事だと思っている。
それは日常における行為から、大きな決断まで、様々な場面で。
存在意義を考えること。
私は、大学に関わる仕事をしているが、
たとえば、大学という場の存在意義について、等、最近よく考える。
本来、大学とは、文字通り「学ぶ」場であり、ものを考える場であった、と思う。
そのような存在として始まったのが大学であることに、多くの人は、異論を持たないのではないかと思う。
しかし、昨今、日本では大学全入時代とも呼ばれるように、その昔、実質的に、特権階級の、人口のほんの一部の人たちだけが進学することが許されていた大学というものに、多くの人が進学するように、できるようになった。私も、大変有り難いことに、その恩恵に預かったうちのひとりなのであるが、他方、大学自体の数は多い一方で、少子化が進んでいるため、一部大学では定員割れの事態が起き、その結果経営難に陥り、学生集めに躍起になる、というようなこともしばしばある。
学生は就職のために、勉学もそこそこに早々に就活を始める。そういうシステムになっているから、仕方が無いのであるが。
このような状況の中で、改めて考えなければならないのは、では、そんな時代にあって大学の存在意義とは、一体何なのか、ということではないか、と思うのである。
就職のためならば、「大学」でなくても良い。というのは、働いてみて頓に思うことである。
極論を言ってしまえば、企業人を育てたいのなら、企業人養成学校でも作った方が、よっぽど効率が良いではないか、と。
つまり、ロジックの曖昧かつチグハグな感じが、拭えないのである。
形式的に大学はあり、そこでは研究者である先生が、学生たちに授業をし、ゼミを開講し、「学問」をしているが、
「社会」の側である企業は、その「学問」をしている学生を早々に青田買いしたい、という思いが、(日本では、未だに)根強い、と、思う。
そこでそもそも論として、「学問」と「企業活動=生産活動=資本主義的労働」は、全く別のものではないか、という疑問が浮かんでくるのである。
学問、て、物事を問い、その根源をじっくりと考え抜くことではないでしょうか。
それは、資本主義的に、儲けを出す、ということの、対局にあるような気がするのです。
そう考えてみると、現代、大学とは、昔の意味での大学とは、大分変わって来ているし、変わらざるを得ないのも事実かもしれない。
しかし、他方で、戦後日本が急激な経済成長を遂げてきた過程と全く同じような考え方、やり方で、社会が進んで行くべきでは無いことは、明らかである。
今までに無いものを考えだし、作り出す思考力を鍛えること。
これからの大学にとって、そういう場としての機能は、改めて、とても大切ではないか、と考える。
智慧を出し合い、自由に議論をぶつけ合い、学び合って新しい価値を発信していくこと。
そんな姿勢を、理念を持ち、それこそ、混迷を極める政治、行政政策に対して、
有用な指針を示すことのできる頭脳としての機能を持ってほしい。誇りある、リーダーとして。
一介の本屋は、大学という場に対して、そこで学ぶ研究者と学生に対して、
そんな風に思うのでありました。
本当は、大学という場に限らず、小・中・高校も、
創造的な力が鍛えられるような、自由な教育が、なされるべきである、と思っている。
大学は、自分で科目を選択することもできるし、自由な時間も多く、ゼミもあるので、学びの形式としては、小・中・高校に比べて、自由度が高いように思う。小・中・高校の授業はというと、正直に言ってしまえば、(先生の)やる気も、創造性の一片も、感じられないものもあった。教科書を、ただ淡々と形式的にこなしていく、それ。今考えれば、先生自身も、学校という組織の規定や規則、ひいては文科省(=国)の打ち出すそれに縛られ、がんじがらめになり、辟易していたのかもしれない、と思う。
私は、かねてから、では、何故、大学だけが上記のような、自由度の高い教育方法なのか、ということに疑問を抱いていた。高校生だって、充分、自分でものを考える力もあるのに、あまりにも形式的な教育方法であるような気が、自分の経験からではあるが、していたのである。(私が公立高校に行ったことも、全く関係しないとは言えないかもしれないが)
生徒の持つ可能性を、全然引き出せないではないか、と。
「学問」という話に、ここで引き戻しますが、
「学問」は一握りの特権的な人びとのために存在するものでは無いと私は思っている。
ほんのひと握りの人びと、遠く昔、ソクラテスやアリストテレスの時代には、階級社会の中で、もしかしたらそんな「哲学者」や「哲人」と呼ばれるような人たちだけが、それを行うことが許されていたのかもしれないし、その言葉が、特権的なイメージが、もしかしたら独り歩きしてしまっているかもしれないが、
その行為の始まりは、本当はとてもシンプルなものなのではないか、と思うのである。
つまり、文字通り、「学び」、「問う」ことである。
そして、そういう意識を、誰しもが、共有できるようになったら、良いなと思っている。
それは、今すぐにでも、誰にでも、始められるものだと思う。
ただ道を歩いているときでも、日々の生活の中でも。
そういう意味で、
学問の始まりは、難しい本を読むことでも、有名な人の著作を読むことでも無く、
人が生きる中で持った疑問を、自分なりに、学び、問うこと。
その「行為」なのだと思う。
学び、問い、考える。
促し、発信し合うことで、新しいものは、創発されていくと思う。
大学に限らず、学びの過程全体で、そのような在り方に、立ち返る必要があるのではないか。
国でも、機関でも、「方針」そして、「哲学」は、
その行く末を決定する根幹である。
本屋の仕事をしていて、大学と大学図書館という教育にかかわる現場の様子に多少なりとも関わらせていただき、「学び、問う」=「学問」に対する哲学の重要性を、認識する。
一介の本屋のくせに、偉そうなことを言いますが、、、集書方針も、予算運営も、ひいては、「方針」と「哲学」に帰結する、と思ったのです。
もちろん、そこに関わる書店も、書籍を作る版元も、その責任の一端を担っているので、学問が活性化すること、そして研究によって社会がより良くなっていくために、必要なところに、必要且つ良いものを、という哲学を持って、仕事をしなければならない、と思います。自戒を込めて。
存在意義を考えること。
学び、問う場である大学(…及び諸教育機関、及び企業、及び国……、全ての人間集団や組織)自体も、きっと、絶えずその方針について、学び、問うていくべきなのだと思う。
人間個人の生き方と同じで。
大学の存在意義から教育等、話は飛び紆余曲折の果て、長ーくなりましたが笑、
「学び、問う」ということの原点と本質に、今一度立ち返ってみるということは、とても大切なことではないかと、
経済的にとても豊かな日本という国に生きていて、思うのでした。
その問いを突き詰めて考えてみることはとても大事だと思っている。
それは日常における行為から、大きな決断まで、様々な場面で。
存在意義を考えること。
私は、大学に関わる仕事をしているが、
たとえば、大学という場の存在意義について、等、最近よく考える。
本来、大学とは、文字通り「学ぶ」場であり、ものを考える場であった、と思う。
そのような存在として始まったのが大学であることに、多くの人は、異論を持たないのではないかと思う。
しかし、昨今、日本では大学全入時代とも呼ばれるように、その昔、実質的に、特権階級の、人口のほんの一部の人たちだけが進学することが許されていた大学というものに、多くの人が進学するように、できるようになった。私も、大変有り難いことに、その恩恵に預かったうちのひとりなのであるが、他方、大学自体の数は多い一方で、少子化が進んでいるため、一部大学では定員割れの事態が起き、その結果経営難に陥り、学生集めに躍起になる、というようなこともしばしばある。
学生は就職のために、勉学もそこそこに早々に就活を始める。そういうシステムになっているから、仕方が無いのであるが。
このような状況の中で、改めて考えなければならないのは、では、そんな時代にあって大学の存在意義とは、一体何なのか、ということではないか、と思うのである。
就職のためならば、「大学」でなくても良い。というのは、働いてみて頓に思うことである。
極論を言ってしまえば、企業人を育てたいのなら、企業人養成学校でも作った方が、よっぽど効率が良いではないか、と。
つまり、ロジックの曖昧かつチグハグな感じが、拭えないのである。
形式的に大学はあり、そこでは研究者である先生が、学生たちに授業をし、ゼミを開講し、「学問」をしているが、
「社会」の側である企業は、その「学問」をしている学生を早々に青田買いしたい、という思いが、(日本では、未だに)根強い、と、思う。
そこでそもそも論として、「学問」と「企業活動=生産活動=資本主義的労働」は、全く別のものではないか、という疑問が浮かんでくるのである。
学問、て、物事を問い、その根源をじっくりと考え抜くことではないでしょうか。
それは、資本主義的に、儲けを出す、ということの、対局にあるような気がするのです。
そう考えてみると、現代、大学とは、昔の意味での大学とは、大分変わって来ているし、変わらざるを得ないのも事実かもしれない。
しかし、他方で、戦後日本が急激な経済成長を遂げてきた過程と全く同じような考え方、やり方で、社会が進んで行くべきでは無いことは、明らかである。
今までに無いものを考えだし、作り出す思考力を鍛えること。
これからの大学にとって、そういう場としての機能は、改めて、とても大切ではないか、と考える。
智慧を出し合い、自由に議論をぶつけ合い、学び合って新しい価値を発信していくこと。
そんな姿勢を、理念を持ち、それこそ、混迷を極める政治、行政政策に対して、
有用な指針を示すことのできる頭脳としての機能を持ってほしい。誇りある、リーダーとして。
一介の本屋は、大学という場に対して、そこで学ぶ研究者と学生に対して、
そんな風に思うのでありました。
本当は、大学という場に限らず、小・中・高校も、
創造的な力が鍛えられるような、自由な教育が、なされるべきである、と思っている。
大学は、自分で科目を選択することもできるし、自由な時間も多く、ゼミもあるので、学びの形式としては、小・中・高校に比べて、自由度が高いように思う。小・中・高校の授業はというと、正直に言ってしまえば、(先生の)やる気も、創造性の一片も、感じられないものもあった。教科書を、ただ淡々と形式的にこなしていく、それ。今考えれば、先生自身も、学校という組織の規定や規則、ひいては文科省(=国)の打ち出すそれに縛られ、がんじがらめになり、辟易していたのかもしれない、と思う。
私は、かねてから、では、何故、大学だけが上記のような、自由度の高い教育方法なのか、ということに疑問を抱いていた。高校生だって、充分、自分でものを考える力もあるのに、あまりにも形式的な教育方法であるような気が、自分の経験からではあるが、していたのである。(私が公立高校に行ったことも、全く関係しないとは言えないかもしれないが)
生徒の持つ可能性を、全然引き出せないではないか、と。
「学問」という話に、ここで引き戻しますが、
「学問」は一握りの特権的な人びとのために存在するものでは無いと私は思っている。
ほんのひと握りの人びと、遠く昔、ソクラテスやアリストテレスの時代には、階級社会の中で、もしかしたらそんな「哲学者」や「哲人」と呼ばれるような人たちだけが、それを行うことが許されていたのかもしれないし、その言葉が、特権的なイメージが、もしかしたら独り歩きしてしまっているかもしれないが、
その行為の始まりは、本当はとてもシンプルなものなのではないか、と思うのである。
つまり、文字通り、「学び」、「問う」ことである。
そして、そういう意識を、誰しもが、共有できるようになったら、良いなと思っている。
それは、今すぐにでも、誰にでも、始められるものだと思う。
ただ道を歩いているときでも、日々の生活の中でも。
そういう意味で、
学問の始まりは、難しい本を読むことでも、有名な人の著作を読むことでも無く、
人が生きる中で持った疑問を、自分なりに、学び、問うこと。
その「行為」なのだと思う。
学び、問い、考える。
促し、発信し合うことで、新しいものは、創発されていくと思う。
大学に限らず、学びの過程全体で、そのような在り方に、立ち返る必要があるのではないか。
国でも、機関でも、「方針」そして、「哲学」は、
その行く末を決定する根幹である。
本屋の仕事をしていて、大学と大学図書館という教育にかかわる現場の様子に多少なりとも関わらせていただき、「学び、問う」=「学問」に対する哲学の重要性を、認識する。
一介の本屋のくせに、偉そうなことを言いますが、、、集書方針も、予算運営も、ひいては、「方針」と「哲学」に帰結する、と思ったのです。
もちろん、そこに関わる書店も、書籍を作る版元も、その責任の一端を担っているので、学問が活性化すること、そして研究によって社会がより良くなっていくために、必要なところに、必要且つ良いものを、という哲学を持って、仕事をしなければならない、と思います。自戒を込めて。
存在意義を考えること。
学び、問う場である大学(…及び諸教育機関、及び企業、及び国……、全ての人間集団や組織)自体も、きっと、絶えずその方針について、学び、問うていくべきなのだと思う。
人間個人の生き方と同じで。
大学の存在意義から教育等、話は飛び紆余曲折の果て、長ーくなりましたが笑、
「学び、問う」ということの原点と本質に、今一度立ち返ってみるということは、とても大切なことではないかと、
経済的にとても豊かな日本という国に生きていて、思うのでした。