Breaking the 概念世界
人間は、分類したがる生き物だ、と思う。
言語という道具を用い、それを日常的に使ってコミュニケーションをとるのだから、
人間にとって「分類」とは、避けて通れないものであったのかもしれない。
しかし、私はその「分類」とやらをときどき訝しく感じ、そして、ぶち壊したい衝動にかられる。笑
一体そこには何の意味があるのか、と。
そして分類とは何を指すのか、と。
「それ」と「そうではないもの」を分ける基準は、一体何なのか、と。
厳密に言えば、厳密に世界を分けることは出来ない、と私は思っている。
多分、このブログのどこかに、前にも同じようなことを書いたような気がするけれど、
世界は、グラデーションなのだと思う。。
言葉を用いながら、けれど、それを超えたところ、その先にあるものを、見越す努力をしなければならない、と思う。
その言葉の奥には、どんな意図があるのか。
その言葉を発した人は、どんな気持ちや思いを持っていたのか。
『ヨーガの哲学』(立川武蔵、講談社学術文庫、2013)という本に、次のような解説がある。
「哲学はことばを大切にする。インド人は究極のものが、ことばを超えたものであることを知っている。それでも「インド哲学」は、ことばによる挑戦をやめない。ぎりぎりのところまでことばによるシステムをつくりあげていって、最終の段階で沈黙するのである。」(P.63)
この文章に、私はグッときてしまった。笑
そう、そうなんだよ、そうなんだよおー、と、心の中で思ってしまった。笑
究極のものはことばを超えたものであることを知りながら、ことばを突き詰めていく、という果敢な姿勢。
どう言ったら良いかよく分からないが、そんな姿勢をとても、見習いたい、と思う。
しかも、最終段階では、「沈黙」に至るだなんて・・・・・・(沈黙・・・)
ことばは、簡単に使うことが出来る。
「男だったら(中略「分かる」というような意味のことば)けれど、(君は)女の子なんだから」
たとえば、
そんな風な小さな、恐らく何の気無しに言われたことばに、
心の中で「女とか男とか、そんなの関係無いし、ただの独りの人間だし、それは理由がお門違いだぞ!(ぷんぷん)」と思いながら、咄嗟に何も言えなかった自分。
でも本当は、言わなければならなかったと思っている。
それは、そこで何も言わなければ、そのマインドセットには収まらない考えを持った人がいるのだということに、そのことばを言った人が気付かないかもしれないからだ。
というか、言われなければ、気付かないのは、当然であり、仕方が無い。
だから、やはり、言うべきだったと思う。
それに、世の中には、現状の世の中で主流として存在している「男」「女」という枠組みに、収まらない人もいる。
主流の外にあるもの、いる人は、きっとその存在を、権利を主張することに、困難を抱くことが多いと思う。
気付いたとき、気付いた人が、言っていくことが大切であることは、分かっていたのに。
そういうことがもしまたあったら、きちんと言葉にして伝えるべきだ、と、自分に言い聞かせておく。
分類として存在する、言語の世界に、
論争を引き起こすことは、絶えず必要な行為ではないか、と私は思う。
分類に、収まらないものは絶えず存在し、だからこそ言葉は変化し、新しい言葉が生まれてくる。
それはごく当然のことである、と思う。
逆にこんなことを書いている自分だって、多分、人を何の気なしに、言葉で傷つけてしまっていることは、あると思う。。。
口は災いの元、という言葉もあるように、
ことばは取り扱い注意なものであると、思う。
人と人は、
それぞれ違った感性を持った人間どうしであるので、傷つけたり、傷ついたりすることは、
多分、完全に避けることは出来ない、と、私は思う。
それは人の生きていく宿命の上で、とても辛いことでもあるけれど、
でも、言葉を用いる人間にとって、
だからこそ、言葉の外にある、或いは、言葉を超越した感覚は、とても大切なものであると思う。
だからときどき、言語という概念世界を、ぶち壊してみることは重要だと思う。
破壊の神、
踊るシヴァ神のように。
うん。
あれ。
何だか、気付いたら、いつも同じような結論に辿り着いているような気がする・・・
言語という道具を用い、それを日常的に使ってコミュニケーションをとるのだから、
人間にとって「分類」とは、避けて通れないものであったのかもしれない。
しかし、私はその「分類」とやらをときどき訝しく感じ、そして、ぶち壊したい衝動にかられる。笑
一体そこには何の意味があるのか、と。
そして分類とは何を指すのか、と。
「それ」と「そうではないもの」を分ける基準は、一体何なのか、と。
厳密に言えば、厳密に世界を分けることは出来ない、と私は思っている。
多分、このブログのどこかに、前にも同じようなことを書いたような気がするけれど、
世界は、グラデーションなのだと思う。。
言葉を用いながら、けれど、それを超えたところ、その先にあるものを、見越す努力をしなければならない、と思う。
その言葉の奥には、どんな意図があるのか。
その言葉を発した人は、どんな気持ちや思いを持っていたのか。
『ヨーガの哲学』(立川武蔵、講談社学術文庫、2013)という本に、次のような解説がある。
「哲学はことばを大切にする。インド人は究極のものが、ことばを超えたものであることを知っている。それでも「インド哲学」は、ことばによる挑戦をやめない。ぎりぎりのところまでことばによるシステムをつくりあげていって、最終の段階で沈黙するのである。」(P.63)
この文章に、私はグッときてしまった。笑
そう、そうなんだよ、そうなんだよおー、と、心の中で思ってしまった。笑
究極のものはことばを超えたものであることを知りながら、ことばを突き詰めていく、という果敢な姿勢。
どう言ったら良いかよく分からないが、そんな姿勢をとても、見習いたい、と思う。
しかも、最終段階では、「沈黙」に至るだなんて・・・・・・(沈黙・・・)
ことばは、簡単に使うことが出来る。
「男だったら(中略「分かる」というような意味のことば)けれど、(君は)女の子なんだから」
たとえば、
そんな風な小さな、恐らく何の気無しに言われたことばに、
心の中で「女とか男とか、そんなの関係無いし、ただの独りの人間だし、それは理由がお門違いだぞ!(ぷんぷん)」と思いながら、咄嗟に何も言えなかった自分。
でも本当は、言わなければならなかったと思っている。
それは、そこで何も言わなければ、そのマインドセットには収まらない考えを持った人がいるのだということに、そのことばを言った人が気付かないかもしれないからだ。
というか、言われなければ、気付かないのは、当然であり、仕方が無い。
だから、やはり、言うべきだったと思う。
それに、世の中には、現状の世の中で主流として存在している「男」「女」という枠組みに、収まらない人もいる。
主流の外にあるもの、いる人は、きっとその存在を、権利を主張することに、困難を抱くことが多いと思う。
気付いたとき、気付いた人が、言っていくことが大切であることは、分かっていたのに。
そういうことがもしまたあったら、きちんと言葉にして伝えるべきだ、と、自分に言い聞かせておく。
分類として存在する、言語の世界に、
論争を引き起こすことは、絶えず必要な行為ではないか、と私は思う。
分類に、収まらないものは絶えず存在し、だからこそ言葉は変化し、新しい言葉が生まれてくる。
それはごく当然のことである、と思う。
逆にこんなことを書いている自分だって、多分、人を何の気なしに、言葉で傷つけてしまっていることは、あると思う。。。
口は災いの元、という言葉もあるように、
ことばは取り扱い注意なものであると、思う。
人と人は、
それぞれ違った感性を持った人間どうしであるので、傷つけたり、傷ついたりすることは、
多分、完全に避けることは出来ない、と、私は思う。
それは人の生きていく宿命の上で、とても辛いことでもあるけれど、
でも、言葉を用いる人間にとって、
だからこそ、言葉の外にある、或いは、言葉を超越した感覚は、とても大切なものであると思う。
だからときどき、言語という概念世界を、ぶち壊してみることは重要だと思う。
破壊の神、
踊るシヴァ神のように。
うん。
あれ。
何だか、気付いたら、いつも同じような結論に辿り着いているような気がする・・・
「分断」から「つながり」へ
どうしたら、繋げられるのだろう。
どうしたら、もっと繋ぐことができるのであろう。
分断された世界を。
コミュニケーションが、断絶されてしまっている世界を。
漠然とした言い方かもしれないけれど、
いつも大体、そういうところに行き着く。
この社会に存在する問題への解決策となる何かが、その、「分断」から「つながり」へのシフトにあるような気が、いつもしている。
きつく固いつながりでなくても良い。ゆるくで良いんだと思う。
「閉」から「開」へ。
「疑」から「信」へ。
では、一体それに対して、自分には何ができるのだろうか。
どうしたら、もっと繋ぐことができるのであろう。
分断された世界を。
コミュニケーションが、断絶されてしまっている世界を。
漠然とした言い方かもしれないけれど、
いつも大体、そういうところに行き着く。
この社会に存在する問題への解決策となる何かが、その、「分断」から「つながり」へのシフトにあるような気が、いつもしている。
きつく固いつながりでなくても良い。ゆるくで良いんだと思う。
「閉」から「開」へ。
「疑」から「信」へ。
では、一体それに対して、自分には何ができるのだろうか。
システム
システムについて考える。
全て物事には、システムがある。
今日、自分のMacのOSをアップデートしたのだけれど、そのとき、ああ、パソコンて生き物みたいだよなあ、と思った。
ソフトをアップデートすることで、脱皮し、進化していく、PC。
誰かが、恐らくアップル社の人びとが、日夜切磋琢磨して研究してきた、また、世界中で研究されている成果を生かし、それを反映させて刷新されていくシステム。
パソコンのアップデート作業、それは、変化していくこの世界と自分がつながる瞬間でもあるのだなあ、と。。。
そしていじればいじる程、いかに自分がこのPCのことを理解していないかが、露呈される。。。
PCとネットのシステムがいかに複雑に、奥深く広がっているのかが、分かる。
何だろう、この、操作しているくせに、そのシステムについて理解していない、感。
何でも、その「システム」について全てを知ろうとするのはもちろん無謀なことなのだろうけれど、
自分が関わっている、携わっているものについて理解が及んでいない、ということは、不安を呼ぶ。
しかしながら我々は、自分の携わっている「システム」について、一体どこまで理解しているのだろう。全く、そんなことを真剣に考えてしまうと、軽く発狂しそうにならなくもないのであるけれど。
人間の身体もそうだけれど、自分でもそのシステムについて熟知しているわけではさらさらない。
システムについて、勉強したり、知れば知る程、もっと探求しなければ、と思うのかもしれない。
その世界を分かりたい、と思う。
世界はシステムだから。
システムっていうのは、これはイメージであるけれど、
「孤」や「個」ではない。
もちろん、詳細に見れば、それは「孤」や「個」なのであるけれど、
しかし、それらが複雑に繋がっているイメージ、それが私の「システム」のイメージ。
そのどこかに、自分もいるけれど、
でも、その膨大なシステムの全てを、理解することは困難であるという事実。
と、同時に、アップルやGoogleや、TSUTAYAのTポイントカードに、私という一個人は、そのシステムに、完全に繋がり、保護され(あるいは捕われ…?)て、管理されている、という、ことなのかもしれないなあ、と、考える。
世界はどうなっていくのだろう。
一個人は、紛れもなく世界の一部である。
変化していく世界について、
知り続けていたいと思う。
変な言い方かもしれないけれど。
茫然とそんなことを考える、年の始まり。
全て物事には、システムがある。
今日、自分のMacのOSをアップデートしたのだけれど、そのとき、ああ、パソコンて生き物みたいだよなあ、と思った。
ソフトをアップデートすることで、脱皮し、進化していく、PC。
誰かが、恐らくアップル社の人びとが、日夜切磋琢磨して研究してきた、また、世界中で研究されている成果を生かし、それを反映させて刷新されていくシステム。
パソコンのアップデート作業、それは、変化していくこの世界と自分がつながる瞬間でもあるのだなあ、と。。。
そしていじればいじる程、いかに自分がこのPCのことを理解していないかが、露呈される。。。
PCとネットのシステムがいかに複雑に、奥深く広がっているのかが、分かる。
何だろう、この、操作しているくせに、そのシステムについて理解していない、感。
何でも、その「システム」について全てを知ろうとするのはもちろん無謀なことなのだろうけれど、
自分が関わっている、携わっているものについて理解が及んでいない、ということは、不安を呼ぶ。
しかしながら我々は、自分の携わっている「システム」について、一体どこまで理解しているのだろう。全く、そんなことを真剣に考えてしまうと、軽く発狂しそうにならなくもないのであるけれど。
人間の身体もそうだけれど、自分でもそのシステムについて熟知しているわけではさらさらない。
システムについて、勉強したり、知れば知る程、もっと探求しなければ、と思うのかもしれない。
その世界を分かりたい、と思う。
世界はシステムだから。
システムっていうのは、これはイメージであるけれど、
「孤」や「個」ではない。
もちろん、詳細に見れば、それは「孤」や「個」なのであるけれど、
しかし、それらが複雑に繋がっているイメージ、それが私の「システム」のイメージ。
そのどこかに、自分もいるけれど、
でも、その膨大なシステムの全てを、理解することは困難であるという事実。
と、同時に、アップルやGoogleや、TSUTAYAのTポイントカードに、私という一個人は、そのシステムに、完全に繋がり、保護され(あるいは捕われ…?)て、管理されている、という、ことなのかもしれないなあ、と、考える。
世界はどうなっていくのだろう。
一個人は、紛れもなく世界の一部である。
変化していく世界について、
知り続けていたいと思う。
変な言い方かもしれないけれど。
茫然とそんなことを考える、年の始まり。