こんにちは。おれ。です。
本日も記事をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
今回は、前回投稿した、「『勉強』という言葉に終止符を打ちたい」という記事の続きを書いていこうと思います。
※前回記事をお読みでない方は、先にこちらをお読みください。:「勉強」という言葉に終止符を打ちたい | おれ。の経世済民会)
前回は、日本人の多くが、なぜ「勉強」という言葉を苦痛に感じるのかを、「勉強」という言葉の観点から考察し、また、「勉強」と「study」という言葉のニュアンスの違いについても説明しました。
今回の記事は、それらの考察を踏まえた上で、「言葉の違いにおける、学習意欲の影響」というテーマから、記事を書いていこうと思います。
よろしくお願いします!
言葉の違いにおける、学習意欲の違い
ここで、興味深いデータを紹介します。
日本人の生涯学習意欲というのは、英語圏の人たちよりもやはりかなり低い水準にあるのです。
この結果には、様々な要因があると考えられますが、今回の記事の題材でもある、「学習」という意味で一般的に使われている言葉のニュアンスの違いという点が、大きく関係していると僕は思います。
前回書いたように、「勉強」という言葉には、「自分に対して無理に負担をかける」というニュアンスが含まれており、そこから多くの人は、「勉強」という言葉から「苦痛」という感情を想起するのです。
一方、「study」という言葉には、「情熱」や「意欲」というニュアンスが含まれており、実際に英語圏の人たちは、この言葉を「探求」や「成長」など、前向きな言葉として認識しているようです。
この違いが、日本人と英語圏の人たちの生涯学習意欲の違いを示していると考えられるのです(下グラフ)。
[グラフ] OECD「Treads in Adult Learning(2025)」
成人の学習参加率(過去12か月間の非公式な仕事関連学習)
※OECD =経済協力開発機構
※=英語圏の国
このグラフからわかるように、ノルウェーやフィンランドといった北欧諸国、そして米国・英国・カナダといった英語圏の国々では、成人の約半数が非公式な仕事関連学習に参加していることがわかります。
一方、日本や韓国は参加率が約13%とOECD平均を大幅に下回っており、生涯学習の参加意欲の違いが、統計データに明確に表れています。
英語圏の人々が、このように成人になっても持続的に学習を行っているのは、学習というものを「study」という前向きな言葉として捉えているからであり、自身の内発的な動機により学習を行う習慣が根付いているからだと言えます。
これに対して、日本や韓国のように、学習を強制されるものとして認識していると、生涯的に持続して学習を継続させることは難しいと言えるのです。
(韓国は、世界屈指の学歴主義社会で、成人の学習意欲が低いのは、大学入試までの熾烈な競争による反動によるものだと推察できます。)
今こそ、復活させるべき言葉
では、このような事を踏まえた上で、今後僕たちはどのような事をしていけばよいのでしょうか。
それはやはり、「勉強」という言葉を極力使わない方向に持っていき、別の言葉に置換することだと思います。
調べてみると、「勉強」という言葉が現在のような意味として用いられるようになったのは、明治時代中頃であるようです。
では、それ以前の時代では、学習することの意味として、どのような言葉が一般的に用いられていたのでしょうか。
それは、「学問」です。
僕は、「学問」という言葉はとても素晴らしい言葉だと感じており、今こそ復活させるべき言葉であると考えています。
それは、前回のブログ(「学問」をしていますか? | おれ。の経世済民会)にも書いた通りですが、
「学問」とは、「問いに学ぶ」という意味であり、「問いを持っている自分自身を問う」行為であるのです。
ですから、「学問」とは、究極の自己探求であり、それそのものが哲学なのです。
これは、日本語だからこそ示せる、言葉の奥深さであり、他の言語では示せない高尚さ、神秘さ持っている素晴らしい言葉だと思います。
もし、日本が「勉強」という言葉に終止符を打ち、「学問」という言葉を復活させたとき、
日本人における学習意欲の問題は、終わりを迎えるでしょう。
本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。
読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
