THOUSAND WINDS -88ページ目

下手なフルート演奏(21)

下手なフルート演奏(20)

イエスの現場・苦しみの共有の本を読んだ

作者は滝澤武人さん、この人も聖公会との事。
さっきの本、佐藤研さんも何となくそれっぽい。
現場の人として史実のイエスを推定するのは、
他の本にもある。
もはや史実のイエスについては、あまり深く考えない方がよいのではないか。
しょせん確かな事は誰にも分からない。
ただ残された聖書と言う書物を活用して
信仰をはぐくむ以外ないのではないか。
今日読んだ本はどれも、リベラル派的な本、
だから復活についてもリベラル的な解釈がなされている。
二人を比較してもかなりな意見の違いがあり、
外国の聖書学者などを合わせるともはやわけが分からなくなる。
素直に聖書に書かれてる事を信じて
じたばたせずにただ毎週の礼拝に出て
聖書も朗読して
お祈りを捧げていてはいけないのか。
仏教なんかが初めから方便として扱ってるみたいに
聖書に書かれている事を
テキストとして扱い
ただおのれの信仰のために
心の平和を得るために
用いてはいけないものだろうか。
もはやそれしかないのではないかと

禅キリスト教の誕生の本を読んだ

佐藤研と言う聖書学者の人が書いた。
この佐藤さん何となく聖公会な気がするが確証はない。
近年ヨーロッパでは禅がブームとなっており、
キリスト教の信者もそれに参加する者が多い。
また教会へ行く人の年齢層も高齢化して、若者の教会離れが目立つ。
最近の聖書解釈学によって、
史実のイエスが語ったとされるものはほとんど残らないと言う結果が出ている。
キリスト的な教会の教義ではなく、史実のイエスは何を語っていたのかは推論の域を出ない。
もしも仮に神秘学で言ってるような神との合一を語ってるとすれば、
それは禅との共通性を見る事になると。
その上で既存のキリスト教を、禅の概念をそこに組み込んだ時、
どんな信仰形態が成り立つか、について、本中のあちこちで
書かれている。
この携帯電話の画面から打てる範囲で、
この本に対する私の感想を述べるには、
文字数が足りなさ過ぎるのだが、
まずは一言だけ。
クエーカーがあるじゃないか。
グノーシス主義やらトマスの福音書やらを、
色々取り上げていながらも、
なぜかあえて取り上げようとしなかったらしいが、
そんな風変わりなキリスト教をおっ立てんでも既に試みは行われている。

アーメン私はあなたに言う

新共同訳聖書では「はっきり言っておく」に訳されてしまってるが、
私はこの岩波訳みたいなのが好き。
ユダの福音書を訳した時も、真似した位だ。
普通何か言った後から、「然り」と言う意味で、
アーメンが唱えられるのが、
イエスの場合最初に来ている。
私なりの意見、それはもしかしたら周りの群衆ほっといて、
先に神との対話が済んでいるからではないか。
つまり心の中で神と語らい、その語尾でアーメンを言ってから、
群衆らに語り出したのではないかと。
人の言葉や自分の言葉に対してのアーメンじゃなかったのでは。
アーメンは神との無言の語らいの中だけで用いられていた。
それを独り言のように、ただアーメンの部分だけが聞こえて来ていたから、
そう周りは覚えていたのだろうかと思った。