イエスの現場・苦しみの共有の本を読んだ
作者は滝澤武人さん、この人も聖公会との事。
さっきの本、佐藤研さんも何となくそれっぽい。
現場の人として史実のイエスを推定するのは、
他の本にもある。
もはや史実のイエスについては、あまり深く考えない方がよいのではないか。
しょせん確かな事は誰にも分からない。
ただ残された聖書と言う書物を活用して
信仰をはぐくむ以外ないのではないか。
今日読んだ本はどれも、リベラル派的な本、
だから復活についてもリベラル的な解釈がなされている。
二人を比較してもかなりな意見の違いがあり、
外国の聖書学者などを合わせるともはやわけが分からなくなる。
素直に聖書に書かれてる事を信じて
じたばたせずにただ毎週の礼拝に出て
聖書も朗読して
お祈りを捧げていてはいけないのか。
仏教なんかが初めから方便として扱ってるみたいに
聖書に書かれている事を
テキストとして扱い
ただおのれの信仰のために
心の平和を得るために
用いてはいけないものだろうか。
もはやそれしかないのではないかと
さっきの本、佐藤研さんも何となくそれっぽい。
現場の人として史実のイエスを推定するのは、
他の本にもある。
もはや史実のイエスについては、あまり深く考えない方がよいのではないか。
しょせん確かな事は誰にも分からない。
ただ残された聖書と言う書物を活用して
信仰をはぐくむ以外ないのではないか。
今日読んだ本はどれも、リベラル派的な本、
だから復活についてもリベラル的な解釈がなされている。
二人を比較してもかなりな意見の違いがあり、
外国の聖書学者などを合わせるともはやわけが分からなくなる。
素直に聖書に書かれてる事を信じて
じたばたせずにただ毎週の礼拝に出て
聖書も朗読して
お祈りを捧げていてはいけないのか。
仏教なんかが初めから方便として扱ってるみたいに
聖書に書かれている事を
テキストとして扱い
ただおのれの信仰のために
心の平和を得るために
用いてはいけないものだろうか。
もはやそれしかないのではないかと