ショート(2)
電車の中で見かけた、座席に座ってる老人、
何か聖書を読んでいるみたいだが、
それが横書きだったので気になった。
わたしも案外邦訳の聖書は、あらかたおさえていて、
薄型の聖書以外では確か、
横書きのものは知らない。
しかもその老人のものはかなりの分厚さで、
大事そうにジッパーつきブックカバーに納めている。
わたしの知らない版の聖書があるのか。
結構古い版に見受けられたがそんな十年以上前と言う感じでもない。
わたしの推測だが、
これはかの新世界訳と言う、
ものみの塔ご用たつの聖書かも知れない。
わたしはさすがにこればかりは知らないから。
ただやはり気をつけなければならんのは、
ものみの塔だからどうとは言っちゃいけないと言うことだ。
どちらが正しいなどと言うのは、
宗教においては成り立たない。
どれもが正しいかもしくは
どれもが間違っている。
誰が一番正しいなんか
とても言えない。
何か聖書を読んでいるみたいだが、
それが横書きだったので気になった。
わたしも案外邦訳の聖書は、あらかたおさえていて、
薄型の聖書以外では確か、
横書きのものは知らない。
しかもその老人のものはかなりの分厚さで、
大事そうにジッパーつきブックカバーに納めている。
わたしの知らない版の聖書があるのか。
結構古い版に見受けられたがそんな十年以上前と言う感じでもない。
わたしの推測だが、
これはかの新世界訳と言う、
ものみの塔ご用たつの聖書かも知れない。
わたしはさすがにこればかりは知らないから。
ただやはり気をつけなければならんのは、
ものみの塔だからどうとは言っちゃいけないと言うことだ。
どちらが正しいなどと言うのは、
宗教においては成り立たない。
どれもが正しいかもしくは
どれもが間違っている。
誰が一番正しいなんか
とても言えない。
ショート(1)
にせパウロ文書はにせものかどうか。
テサロニケ人への手紙2やエペソ人への手紙や
コロサイ人への手紙や
テモテへの手紙1、2
テトス人への手紙など。
誰が書いたかは問題になるのか。
元からパウロは目が悪かったから、
口述筆記に頼っていた。
だからこれらも本物だよとは言わない。
ただパウロが書いたとなれば、
どれもそうじゃないのではないか。
著作権などが古代の文書に意味があるのか。
誰が書いたとてそれが
パウロが書いたものとして
伝わったのならそれでいいじゃないか。
なぜそこで真偽を問う必要なんかがあるのか。
キリスト教の矛盾や弱味みたいなのを揚げ足取ったところで
何の得があるのか。
誰が書こうがそれはパウロ文書であり、
パウロ自身が書いたのはあの
大きな署名の所だけじゃなかったろうか。
テサロニケ人への手紙2やエペソ人への手紙や
コロサイ人への手紙や
テモテへの手紙1、2
テトス人への手紙など。
誰が書いたかは問題になるのか。
元からパウロは目が悪かったから、
口述筆記に頼っていた。
だからこれらも本物だよとは言わない。
ただパウロが書いたとなれば、
どれもそうじゃないのではないか。
著作権などが古代の文書に意味があるのか。
誰が書いたとてそれが
パウロが書いたものとして
伝わったのならそれでいいじゃないか。
なぜそこで真偽を問う必要なんかがあるのか。
キリスト教の矛盾や弱味みたいなのを揚げ足取ったところで
何の得があるのか。
誰が書こうがそれはパウロ文書であり、
パウロ自身が書いたのはあの
大きな署名の所だけじゃなかったろうか。
神々か神か
ネタ帳から。
怠慢で何も救ってくれない、一神教の神と、
勤勉だが力の乏しい、八百万の多神教の神々と、
どちらが信じるに耐えるだろうか。
いつかはこの世の終わりには必ず救って下さると
死ぬまで信じ続けるだけの意味が
一神教の神にあるかどうか。
分業がなされているのか、この神は恋愛だけとか、
こちらの神は学問だけみたいな、多神教の神々、
ここの神社の氏神様は、願いごとが叶わなかったから、
違う神社に行こうみたいな、こちらから選択出来るみたいな、
いい加減な神様たちを拝むのは、
意味があるのかどうか。
神が全能で完全だと決めつけてしまうから、
この世界の観察結果と矛盾するが、
神さえも限界があると信じるなら、
この世界の不完全さにも目をつぶれるかも知れず
人間の側から神を選べる方がむしろ
大人の宗教な気がしないでもないと。
怠慢で何も救ってくれない、一神教の神と、
勤勉だが力の乏しい、八百万の多神教の神々と、
どちらが信じるに耐えるだろうか。
いつかはこの世の終わりには必ず救って下さると
死ぬまで信じ続けるだけの意味が
一神教の神にあるかどうか。
分業がなされているのか、この神は恋愛だけとか、
こちらの神は学問だけみたいな、多神教の神々、
ここの神社の氏神様は、願いごとが叶わなかったから、
違う神社に行こうみたいな、こちらから選択出来るみたいな、
いい加減な神様たちを拝むのは、
意味があるのかどうか。
神が全能で完全だと決めつけてしまうから、
この世界の観察結果と矛盾するが、
神さえも限界があると信じるなら、
この世界の不完全さにも目をつぶれるかも知れず
人間の側から神を選べる方がむしろ
大人の宗教な気がしないでもないと。
サンユッタ・ニカーヤ
以前書いたことがある。
悪魔と仏陀の対話みたいな仏教の本。
悪魔が修行中の釈尊に対し、あれこれ誘惑をしてくる。
それをことごとく釈尊は見破り、悪魔が「わたしのことを知っておられる」とぼやき退散するみたいな話。
ただ相手の正体を見破ったくらいで退散するのもどうかなと思うが、
霊における戦いと言うのはどうも情報戦みたいで、
相手を知っていると告げる事が最大の攻撃になるらしい。
かの聖書の福音書でも、悪霊がイエスに対して強がりをいうみたいな、
「お前の事知ってるぞ、神の子メシアだ」
みたいな
ほめてどうする、と思ったが
これが霊的な攻撃にあたると考えると、
悪霊もせい一杯反撃しているんだなと思えてくる。
事実イエスは自分がメシアだということを弟子らにも言い広めないように念を押していたのも、
それが霊的な戦いに不利になるからだろうか。
悪魔と仏陀の対話みたいな仏教の本。
悪魔が修行中の釈尊に対し、あれこれ誘惑をしてくる。
それをことごとく釈尊は見破り、悪魔が「わたしのことを知っておられる」とぼやき退散するみたいな話。
ただ相手の正体を見破ったくらいで退散するのもどうかなと思うが、
霊における戦いと言うのはどうも情報戦みたいで、
相手を知っていると告げる事が最大の攻撃になるらしい。
かの聖書の福音書でも、悪霊がイエスに対して強がりをいうみたいな、
「お前の事知ってるぞ、神の子メシアだ」
みたいな
ほめてどうする、と思ったが
これが霊的な攻撃にあたると考えると、
悪霊もせい一杯反撃しているんだなと思えてくる。
事実イエスは自分がメシアだということを弟子らにも言い広めないように念を押していたのも、
それが霊的な戦いに不利になるからだろうか。