THOUSAND WINDS -232ページ目

安全は幸福よりも優先される

昨日の一部続き。
何かの自己啓発書に書いてあったと思う、安心感を得る為に
あえて人は今の不幸を選ぶ。
将来の安心を得る為に、今我慢したり苦労する。
先行きどうなるか分からないのに、未来に向けて努力する。
今そのものを大事にせず、未来の事ばかりに気を取られている。
今が良ければいいんじゃないのか、とは誰も思わない。
どんな社会の仕組みも今後どうなるか分からない未来へ向けて
努力目標をかかげる。
保険の仕組みも高い掛け金をかけていざと言う時に備える。
完全な備えなどあるのか。
どれだけ万全をつくしたつもりでも予想外のハプニングは
起こる。
だから何もするなとも言えない。
言いたかったのはいくら今不安があってもかじょうにそれに取り組んでると
今何か小さな幸せをつかめるのを
みすみす取り逃さないか、
なるようにしかならんのだから
今幸せでいてはいけないのかと
言う事

まだ続くか

例えば吸血鬼、ドラキュラともバンパイアとも呼ばれる。
それの苦手なものが、まああることあること。
にんにく、銀の十字、日光、聖書、杭、水を渡れないなど。
そうやって元々いないはずの吸血鬼の影におびえて、
何とか心を安心しようと、
人間たちがあれやこれや無い知恵絞り出して、
ぶら下げた情報に過ぎない。
悪魔側にしても大抵キリスト教、しかも大抵カトリックの持ち物で、
どうにか撃退出来る事に決めてしまった。
そうしとけば安心するから。
そう言った人間側の武器が、全く敵わないような、強力な相手であったら困るから。
一介の信者レベルでも何とか退散出来る事にしておきたかったから。
実際のところ効果がないのかどうかは知らない。
最後は強い意思力が勝る事が条件となるとは思うが。
しばし悪魔の衣装に身を包んで面白がっていたが、
ちょっと考え直した。
そんな自分の方から悪魔ですよと正体明かすような、
正直な悪魔もいないだろうしな、
おっと

続き

聖書なんかで見かける、笑っちゃう記述に、悪霊がイエスに出くわした時に
常に自分の方から名乗り、イエスは神の子だのキリストだのと、あがめまくる。
そんなのっておかしくはないか。
イエスをキリストとしてあがめ拝むんなら、そこらへんの
クリスチャンと同じではないか。
すぐに負けを認めて出て行ってしまう。その際にやたらとお前は神の子だのキリストだのと言いつつ。
普通神に敵対する物ならば、神の子イエスなんか認めないのが普通だろ。
失楽園でのルシファーみたいに。
それにイエスの方から言わない限り、悪霊の方はばれるまでしらばっくれてもおかしくない。
自分から白状する必要はない。
何て正直な悪霊たちだろうか。
実際の悪霊とか悪魔と言うのはきっと、
もっと悪質で分かりにくく、
自分からは尻尾を出さないに違いない。
だからそんな容易に人間の方からは、悪霊憑きか見分けつかないんじゃないのか。
人間の願望だろ、それ。
簡単に見分けがつく方が安心出来るものだから、
あえて正直な悪霊をでっちあげてしまう。
本当に悪い霊は一体何によって、見分ければ良いのか。
悪霊祓いぐるっぽにはよお書かないネタ

キ○ガイとか悪霊つきとか

キチ○イかどうかはどうやって判断するのだろうか。
また悪霊つきはどうやって判断するのだろうか。
あの人はどこかおかしい。
あの人は普通じゃない。
あの人は何となくアブナイ。
それは何を根拠にしてるのだろうか。
大数の法則。
多数決の原理。
絶対神を持たぬ国民ゆえ、
みんながしている事が、
正しい事の基準。
人と違う事をすれば怪しまれる。
目立たない方がいい。
大多数の人がやらない事は手をつけない。
群衆の中に埋もれて
いてもいなくてもどうだっていい
そんな存在になる事が生存の秘訣。
どこにもそれが正しい、
それは正しくないなどと言う
規範は載ってはいない。
だから多人数の者が支持する考え方や
行動規範が支持される。
または権力のある者、人気やカリスマのある者の
ツルの一声が支持される。
そんな国の中で打ち解けられずに
日本で日本人の両親の元で生を受けた
「異邦人」が、
暮らしていくのは容易ではない。
普通にしろと言われる。
でも普通の定義が分からない。
みんながやってるように、
その「みんな」って
一体誰だ?

今さら聖書について書くほどの事も

これが今回書くのを邪魔された。
イスラム教のクルアーンが翻訳される事なく、アラビア語のままで使われている。
キリスト教の聖書は基本的に各国語で翻訳されて使われている。
既に百何十国の間で使われているのか知れない。
日本を含めて国によっては、その国の言葉で表記しづらいようなものもある。
だから「原罪」だの「神」だの「購い」とか言う単語は
的確に翻訳出来るのか疑わしい。
クルアーンにしろその内容を知る為には、各自でアラビア語を学んで
しかも理解するには頭の中でも、
母国語への翻訳作業が必要になる。
明治初期に作られたとされる、ギュツラフ版聖書の翻訳語も、かなり苦労して選ばれている。
果たしてそれで意味が本当に合っているのか?
アイスランド語で神と言うのと日本語で神と言うのとヘブライ語で、ギリシャ語(コイネー)で神と言う言葉は同じものを指すのだろうか。
イェシュアと言うのとイーススと言うのとイエズスと言うのとイエスと言う言葉は?
話は変わるが
このところの時間泥棒について考えている。
ブログ書く時間がない。