operabuffのブログ

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OPERA BUFF(オペラ・バフ)とはオペラ狂のことです。 オペラが好きな方や興味を持ち始められた方にご満足いただけるよう、オペラと歌曲の関連古書と中古CD、西洋文化やコスチュームの関連古書、レンタルコスチューム、歌舞伎や演劇の関連古書を揃えております。

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今回のペーザロ滞在で最後に見たのはブッファの傑作アルジェのイタリア女だった。

私は心底楽しくておかしくてロッシーニの神髄が少しわかったような気がした。

うまく言えないがとにかく深刻がらずに真面目にふざけるということか。それには難しいパッセージも笑いながらなんでもないように謳わなければ成立しないということだ。歌手にはかなり高度なテクニックとセンスが要求される。その意味でこのロッシーニフェスティバルはよく考えていると思う。


さてヨーロッパ世界とイスラム世界の対立はオペラの題材としてはけして珍しいものではないがロッシーニの手にかかるとこんなに楽しい物か。お話の筋などどうでもよくなってしまいぐらいだ。

ライブルモアなる人の演出は時代を1960年代に設定していた。スクリーンを駆使してそこに石油の採掘機、オイルマネー、漫画、当時のイタリア風俗などが映される。船が難破したのではなくて飛行機がエンジントラブルで不時着した設定になっていた。そして登場人物は漫画と同じ衣装で登場する。


ムスタファはスキンヘッド、サングラス、アロアシャツ、半ズボン、草履ばきで出てくる。男声合唱は白い軍服、黒のトルコ帽、同じ髭を付け、マシンガンを持っている。

イザベラはまるでバービー人形のようで水着になっちゃう。この演出はホーンには無理だったろう。

出演者は歌を振り付きで歌う。これは難しいものだ。おやりになったことがある方はお判りになるだろうが動きながら、あるいは踊りながら歌うと言うのは想像以上に難しいものだ。


とくにムスタファ役のエスポジトは演技をしながら動きながら歌っても全く音楽を崩さなかった。これは驚異だった。演技も巧くこの人かなりのインテリジェンスの持ち主と見た。

今でも彼のスキンヘッドが脳裡を離れない。スキンヘッドといっても鬘だったが。

中国人のイウジェ シがリンドーロを歌った。いい声だったが少しあがっていたのか前半はちょっと歌詞がイタリア語に聴こえなかったが後半持ち直す。ただ東洋人は視覚的にこの舞台では異質だった。

イザベラはゴリャチョバ。モデル体型の目の覚めるようなロシア美人だった。ビジュアルで選んだのだろう。これで声が強ければ大スターなのだろうが神様はそこまでサービスしてくれなかったようだ。

どうも声がこもりがちで飛んでこないのだ。アンサンブルもいまいちだった。テンポ音痴なのか前に進まないのだ。まあ美人で水着になってくれたから許すけど。


ペーザロの街の古本屋で1981年の音楽祭の同じ演目のプログラムを5ユーロで入手した。

これを見るとムスタファがレイミー、イザベラがゴンザレスとメジャーになった人が並びタデオが懐かしい

ブルスカンティーニだった。一度彼の舞台を観たかったものだ。この公演ではタデオ役はカッシと言う人だったがいい声なのは覚えているが今一つ印象が薄かった。

役的にちょっと曖昧だが狂言回し的な重要な役でもある。このカッシはそう印象に残らなかったがブルスカンティーニだったらどうだったのか考えた。なぜこんなこと書くかと言うとご覧になった方も多くいらっしゃると思うがMETのガラコンサートで一幕のグランフィナーレだけやっている映像があるがそこでタデオを歌っているブルスカンティーニの「なんかムスタファが変な面だぞ。」と言う一言が味があり忘れられないのだ。彼のタデオを実際に観るのは叶わぬ夢だけど。


指揮はスペインのラモン・アンチナル。手慣れた棒だった。

ペーザロは8月15日を過ぎると秋の気配が強くなる。海水浴客も減り、北のミラノ、ボローニャ行の電車が混み始め、街のブティックも50%オフが始まるか秋冬のものを出し始める。

またこの街でロッシーニの笑いの世界に浸りたいものだ。






本日夜の「アルジェのイタリア女」だけになってしまって、残念・・・
1週間とても毎日楽しかった・・・

私MはSのようにオペラにすごく詳しいわけではない。でもオペラを見るのは大好き。
何処が楽しいかって?

それは耳と目が楽しいから。
素敵な音楽と美しい舞台、面白かったり、悲しかったりする筋立て、人の五感に訴えて、ある時間を楽しませてくれる・・・・まあ言ってみれば贅沢の極致です。

外国のオペラハウスでもロッシーニのオペラはレパートリーに入ってはいるけれど、あまり頻度が多く上演されるものではありません。コロコロと転がる声と、アンサンブルが必要なのでですね。

でも難しいドラマ無しに、単純に疾走する音楽を楽しみ、このフェスティバルのようにきれいな舞台を楽しみ・・・・いい気持になって・・・ぶらぶら歩いて帰り・・・・おいしい物を食べて・・・・・

女の人だったら、何を着ていくか、どんなアクセサリーをつけるか、それも楽しみのうちです。
日常ではあまり着ないものを着て、少し頑張ってお化粧して、ちょっと頑張ったアクセサリーをして。
ちょっとお姫様気分で、自分も人に見られに行く。
上手く全部が決まって、よその男の人がちょっと興味を持った視線を投げかけてくれて、その隣の女の人が、ちらっと上から下まで悔しそうに視線を走らせるとき・・・・・
それは女としてちょっと幸せな気分です。
それは一年に一回か二回あってもいい時間です。

で、また日常の仕事に、暮らしに戻る。

そうです・・・・頭の中にそろそろ東京の日常が忍び込んできているのです・・・・

本日のアルジェは明日帰国前のミラノから!!
ペーザロ滞在も残すところ1日となった。昨晩はベルカントコンサートと称するアメリカのテノールミカエル・スパイレスのリサイタルに行ってみた。
会場はロッシーニ音楽院の2階にある素敵なホールだった。
演奏も素敵だとなお良かったのだがこれは残念な結果だった。歌った曲はスカルラッティ、ロッシーニ、モーツアルト、ヴェルディその他だった。
とにかくテクニックは素晴らしい。上から下までスムーズに危なげなく出してみせる。ハイノートは当然ながら下の音も器用にこなすのは刻苦研鑚の賜物だろう。ただテクニックは完璧だが音楽は無かった。彼の頭の中には声の誇示しかないようで最初のスカルラッティを聴いただけであきてしまった。ロッシーニやベルカント系ならともかくモーツアルトのコシファントゥッテのフェランドのアリアまでに装飾音を入れたのには呆れた。ピアニストがプログラムに刷り込まれている女流の人ではなく男性に代わっていたのは多分このセンスが許せなかったのではないかと想像する。
歌のセンスとはなんだろうと考えた。こんなにいい声を神様からもらったのにセンスがゼロというのは惜しいことだ。多分幼年期や学生時代にいい歌手をあまり聴かなかったのかもしれない。
センスだけはどんなに高音を磨いても育てることはできない。
プログラムの最後にリゴレットの公爵のアリアを歌ったがヴェルディは声が良ければ何とかなるというこの作曲家の偉大さを証明する良い機会だった。
熱狂してブラボーを叫ぶ人がいる反面白けて拍手もろくにしない人がいるのに安心する。

そして今日マチネーでの若手の上演、ランスへの旅に行く。歌舞伎でいえば若鮎の会といったところだろうか。これはとてもおもしろかった。とても幸せだった。
簡単なセットで船のデッキ上に白い椅子が並べられているだけで衣裳も1幕は白Tシャツ、白ズボン、白バスローブでリゾートしている。最後のグランフィナーレは2幕のパーティ用の衣裳に着替えながら歌う。2幕はそのままドレスアップ姿で歌う。
とにかくこのオペラあまり内容がなく次々に登場する歌手たちの顔見世といえる。
とにかくスピード感とテンポの良さが命だ。指揮の若いダニエル・スミスはとても優秀。この人将来楽しみだ。2階の桟敷から彼の楽譜をみることができたがマーカーを色分けして書き込みだらけだった。歌手たちも熱演。日本人もアントニオに上田君、モデスティーナに楠田さんという人が出ていた。彼らには悪いがどうしても西洋人に交じるとあまり絵にならない。張り切って動きすぎなのかもしれない。2幕でモデスティーナにカメラを持たせて写真を撮らせていたが明らかに日本人のカリカチュアであった。カーテンコールの時すぐ下の同邦人が3人並んでスマホで写真を撮っていたのに苦笑する。歌手たちはいい声でそれぞれ持ち味を出していたがシドニー卿を歌ったバスがいい感じだった。さてこの若手の中からメジャーになれる人は何人いるだろう?
昨晩のテノールのように声とテクニックだけでは上にはいけない。厳しいものだ。