人が、他の人をコントロールするためにもがいているときは、その人とコミュニケーションをとることは難しい。反対に、相手からコントロールされないように苦闘しているときもそうだ。なぜなら、いずれの場合も彼らが他の人と話す時は、相手を攻撃する理由を見つけるために話しているだけだからだ。そのようなことでは、人と効果的なコミュニケーションをとることは難しい。


コントロールの苦悩を打ち破るためには、お互いが誰か他の人のためではなく、まず自分のためになにかするということを学ばなければならない。そして、他の人からのコントロールに振り回されないようにするということが大切だ。

嘆きや「不幸な気持ち」を利用して、他の人の行動をコントロールしようとするやり方は、相手を悲しませ、悩ませてしまうものである。コントロールしようとする側とその相手側の、双方の悲しみが増大してしまうものなのである。


では、冷静な対応や穏やかな背仕方と言う方法でコントロールするとしたらどうだろうか。そのほうが苦悩を軽くしてくれるのだろうか。いったい効果的に人をコントロールする方法というものがあるのだろうか。いや、そもそも私たちは本当に誰かをコントロールしたいと望んでいるのだろうか。

自分はまだコントロールする以外に、相手の問題行動に対応する方法を知らない。これからは、自分の「怒り」と相手の問題行動を、より明確に分けて考えることができるように、これまでとは違ったアプローチのしかたをしていく。


まずはこれまでの自分のコミュニケーションの仕方について理解していく必要がある。単に変えたいと望むだけでは問題を解決する事はできない。実際に考え、検証することも必要である。


お互いの意思を対立させるとはいったいどういうことだろうか。自分は、相手に自分が望んでいる事をして欲しいと思ってきた。もし、相手の望みが自分の望みと一致した場合は問題はなかった。しかし、相手の望みが自分の望みと違うものだったらどうだろうか。自分は、相手がすることに対して「相手自身がしたい」と望んでいる事であろうがなかろうが、どちらにしても自分が相手の行動をコントロールしたいと考えていたのだ。


今までの対立は、当然起こるべくして起こったものとして見て、自然な出来事として受け止めていく。ただし、そのままの状態でいてもいいということではもちろんない。そうさせないためにも、私たちはこれまでの状況を理解し、これまで起きたこときたことが起きて当然だと言えないような状況に変えていく必要がある。


ところで、「人が他の誰かをコントロールする」とはいったいどういうことなのだろう。実はそれは、人が誰かに何らかの行動をおこさせるという以上のことなのだ。


人をコントロールするということの本当の意味は、相手の希望を無視して、人が他の誰かに自分の望んでいる事をさせるということだ。相手は、その人の望みに従う以外に方法がないのだ。その人の望みどおりに動くか、あるいは望みに従わなかったために生じる状況に苦しむかしか選択肢はないのだ。「お金か、命か、二つに一つ!」という二者択一的な選択を迫られるのと同じである。


私たちが、誰かに行動を起こす決意をさせたり、反対にそれをやめさせたりするには、基本的に二つの方法がある。一つは、人が行動したりしなかったりすることで、どのような喜びを享受できるかというよい情報を与える事。それを「教化の予測」と呼ぶ。そして、もう一つは、人が行動したりしなかったりすることで、どのような痛みや傷を受けることになるのかという悪い情報を与えること。これを「罰の予測」と呼ぶ。どちらの方法でも、相手にある種の情報を与えることによって、相手が進んで自分の行動を変えられるようにすることができる。


他の人に影響を及ぼすということと、コントロールするということは異なる事だ。どちらも、相手に情報を与えるという点では同じなのだが、コントロールの方は、相手の行動を変えるというだけではなく、私たちの要求に従わなければ、悪い結果を被らざるを得ないという状況に相手を追い込んでしまうのである。


今、自分と相手とのやり取りを「お互いの意思や望みの対立」という形でとらえている。二人の人間が、お互いにコントロールしようとするとき、その人たちは、常に二つのことをするものだ。一つは相手を攻撃したり、攻撃するぞと脅したりするということ。そして、もう一つは、相手の反撃に対して自分の立場を強固なものにするというこだ。

「怒り」を認識するというプロセスにおいて重要で不可欠な事は、自分の惨めな気持ち、すなわち「不幸な気持ち」というものが、実は相手をコントロールするための役割を果たしていたのだと気づくことだ。


自分が、「不幸で惨めな気持ち」になって嫌な顔をすると、相手は自分が何か悪い事をしでかすと怒られ攻撃されるであろうことを察知する。これは、「不幸な気持ち溜め込み作戦」の成功を意味している。しかし、このような形で相手が「自分の痛み」を予測して相手の行動に反応するということは、形を変えた不満の表れであり、それはまた新たな不満を生み出してしまう。このような場合の不満とは、通常「不安」であり「恐れ」である。自分が不機嫌になるたびに相手のほうは「不安」と「恐れ」を経験するのだ。


これこそが、「不幸で惨めな気持ち」が他の人をコントロールするための道具として使われる理由なのだ。他の人は、私たちの態度を見て、私たちが相手を攻撃しようとしていると言う事を察知できる。彼らは自分が味わうであろう「嫌な気分」を事前に予期し、これからうける衝撃を和らげるように反応し行動するのだ。しかし、そのようにすること自体が、すでに相手は私たちのコントロールの下に置かれているということなのだ。


私たちの怒りとそれに対する相手の不安や恐れ、この二つの関係が、私たちの怒りの感情表現と他の人の行動とを結びつける原因になっている。「私が怒れば、相手は不安や恐れを感じて動くだろう」という「怒り」と「不安や恐れ」・・・この二つの関係こそが、他の人の行動を意図的にコントロールしようとする私たちの感情の根底に潜んでいるものである。


私たちの誰もが、自分の愛する人に自分が感じている悲しみや不幸な気持ちを愛のある形でわかってもらいたいと考えるものだ。しかし、相手に対してそうすることを強要することはできない。自分が自分の「不幸な気持ち」を道具に相手をコントロールしようとしている限り、相手のほうも自分の行為を「自分をコントロールするための手段」としてしかとらえることができなくなってしまう。そして、だんだんと自分の言葉には従わなくなってしまう。それどころか、大げさに嘆き悲しみ、自分の不幸を見せびらかすことによって対抗するようになるのだ。二人は、どちらがより不幸かを競う事になる。そして、自分の「不幸な気持ち」をうまく相手に伝えた方が勝利を手にするのだ。

相手に対する怒りと悩みを自分自身の「問題」として意識する。


自分の悩みと相手の行動の問題とを、切り離して考えるようにする。


そのために、二つのことをすること。相手の行動に怒りを感じた時、「私は怒っている」と言ってみる。次に、自分の怒りの感情が収まるまでは、相手の行動にどう対処していいかの判断をするのを待つこと。


今は、自分の怒りの感情(「苦悩」や怒りを伴った感情)で、相手の行動をコントロールしようとしている。しかし、その自分の行動によって自分が望んでいない状況をもたらしてしまう事になる。


実は、私たちが、そのときどきの感情で他の人をコントロールしようとする理由は、そのときの私たちが「二歳児」のようになってしまうからだ。そこにもはや大人は存在せず、二歳児のころの行動に戻ってしまう。ただし、このことについて自分を責める必要はない。誰もが自然に実行してしまうことである。自分のその行動を「頑固さ」や「悪」という見方ではなく、「人間として自然なこと」としてとらえることができれば、それは自分の行動の変化を助けるものとなるだろう。


私たちは、生まれてから言葉が話せるようになるまで、両親と様々な合図(シグナル、サイン、信号)によってコミュニケーションをとってきた。痛みや嫌な気持ちを感じると、親を嫌な気分にするようなシグナルを出す事で自分の状態を気づいてもらっていたのである。泣いたり、叫んだり。どの赤ちゃんも、ミルクを求めたり、オムツ代えをせがんだりするために心地よい音色の鐘を鳴らすことはない。それどころか、赤ちゃんの出すシグナル音は、人が無視することが出来ないような嫌悪感を感じる音だ。


誤解してはいけないのは、親が自分の不快感を解消するためだけに赤ちゃんのシグナルに応えているのではない。仮にそうだとすれば、赤ちゃんは生き延びる事が出来ないだろう。両親は、赤ちゃんだった私たちの不快感を自分たちの不快感としてとらえていたのであり、同じように、私たちが幸せな気持ちでいることを、彼らの幸せと感じていたのである。


成長するにしたがって、私たちは状況を理論的に解釈し把握できるようになる。そして、自分がある種の感情表現(不快感を相手に伝えること)をすることで、誰かがそえに反応して動いてくれるということに気づくようになる。また、逆に自分自身も親の感情表現に反応し、動いているということにも気づくようになる。人の感情表現は、多かれ少なかれ、誰かに何らかの行動をさせるものなのだということに気づくのである。


また、ストレス表現、あるいは感情表現の激しさによって、人の反応の仕方を変えることができるということにも気づく。穏やかに接しても相手から反応を得ることができないときには、激しく泣いたり叫んだり、そして怒ってみたりすることで、相手から何らかの反応を引き出すことができるということに気づくのだ。私たちは、そのような経験を通して、自分が欲しいものを表現すればするほどなんでも手に入れやすくなるものなのだと考えるようになってしまう。実は、「欲しい」という人間の欲求は、文字どおり、私たちが持っていない何かに対する苦悩を表現しているのである。


このようなプロセスを通して、私たちは他の人も自分も「意思」というものをもっており、それによって人を動かすのだと思い込むようになる。そして、お互いに自分の「意思」で他人を動かすようになるのだ。両親と私たちとの間でこの「意思」がぶつかりあうと、やがてより強い意思をもっているのは誰なのかという勝ち負けの問題になってしまう。そして、それはやがて、どちらがより相手を恐れさせ、多くなき、長く苦悩にさいなまれるかということの競い合いになってしまう。


幸いなことに、私たちは言葉を話すことができるようになり、幼児期の感情表現とは異なる方法を見つけるようになる。これまでのように、単に自分の「意思」を振りかざして、世の中に対しダダをこねるようなことで問題を解決する以外にも、いくらでも問題解決の方法があるということに気づく。「もし違う方法で取り組めば、問題を抱えることはないだろう」と言ったり、考えることによって問題を解決することができるようになる。つまり、意志の力やかんしゃくを起こしてダダをこねることによってではなく、情報を活用することによって問題を解決することを学ぶようになるのだ。

しかし、私たちの誰もが幼児期の頃の遺産を引き継いでいて、状況によっては時折そのときの感情表現に戻ってしまうことがある。支配と従属のような関係が見られる全ての関係においてはそうだ。例えば、先生と生徒、親と子などの関係はその一部だ。二歳児の頃のような感情がらみの関係に戻ってしまうと言う傾向は、学校、職場、結婚生活(支配と服従の関係におかれた場合)、そして自分の子どもを育てる場合にもありうることだ。


どの関係にあっても、自分の意思と彼らの意思の対立が根底にある。すべての場合において、自分の「不幸な気持ち」で相手と対立してしまっているのである。いずれの問題に関しても、二つに一つの結論しかないと考えている。一つは、自分が彼らに勝って主導権を掌握し、幸せになれるか。あるいは、彼らが勝つことによって、自分が惨めで、気分を害され、望みのない状態に置かれるかのどちらかだ。それら二つの状況は、二歳の頃の自分の物の見方が作り出しているのだ。つまり、相手が自分の苦悩を見て気持ちを察し、自分の望みどおりに動いてくれたときは「自分は彼らから愛された存在」なのだと思うことができる。しかし、もし彼らがそうしてくれなければ「自分は、無力で愛されていない存在」なのだと思うのだ。その対立は絶え間なく続き、まるでどちらが惨めで苦悩しているのかを競い攻撃するコンテストのような状態になってしまう。


しかし、「もっと大人になれ。大人らしく行動しろ。」と自分に対して怒り、自分を攻撃するのは二歳児の方法である。


今、自分がするべきことは、自分が怒っている時は「自分が怒っているのだ」ということを認識し怒っている間は何もしないということだ。このことができるようになるにつれ、自分は相手が自分を怒らせるたびに「不幸な気持ちコンテスト」の状況に陥ってしまう自分の「癖」から抜け出す事ができるようになるだろう。まず、自分が自分自身を「不幸で惨めな気持ち」に追い込まないようにすること。

自分の「怒り」を認識し、その理由付けが出来るようになるにつれ、自分の行動を「習慣」としてではなく、意味ある行動としてシグナルとして受け止めることができるようになるだろう。


また、「怒り」を認識する力が増すにつれ、自分自身の「怒りの習慣」を認識するようになり、その「怒り」は、他の人をコントロールしようとする自分の思いが原因である事にも気づくだろう。


自分の習慣的な反応以外にも、自分で選択できる反応が存在するという事に気づくことが、「怒りの習慣」という強い力から踏み出すための大きな一歩である。


問題解決能力が「怒りの習慣」に取って代わる事により、自分自身の行動も気持ちも変わっていくだろう。

仕事が終わって、一人で色々と考えてみる。

自分が自分で怒ってるなって感じた過去の経験をずっと思い出していた。

確かに、彼女にも理不尽なところはたくさんあったけど、「ありえない」怒りがその中には確かにあった。

彼女は彼女で辛かっただろう。


今、全てが終わって客観的に二人を眺めると・・・。

二人揃ってガキだなという感想、何やってんだか。


最後の彼女の「サヨナラ」のメール。

最後くらい一度バイバイって返信してもいいかな、なんてぬるい事も頭をよぎったりしたけど、とんでもない!


自分の中にもモラ・ハラ加害者の性格を見つけてしまった今、絶対にメールしない。

ムカつくところはたくさんあったけど、彼女の不幸を望むわけではない。

自分も彼女と全力で距離をおくので彼女にも自分から全力で逃げて欲しい。

冗談抜きでしばらくは女を絶って、時間かかるかもしれないけど自分のコントロールの仕方を上達させなくては。

さっき、元彼女から「バイバイ・・・」ってメールが来た。

幸せをたくさんもらえたけど、幸せにしてあげれなかったって。

先に進む事にするねって。


幸せな未来に向かって進んでくれ。

実際、寂しいです。


でも、今の自分は彼女のそばにいるのはホントに好ましくない。

自分のためにも、彼女のためにもなりやしない。


今は、もしかしたら自分も彼女もお互いにコントロールしようとしてやしなかったか、自分自身向き合いにくかったことと向き合うべき時期だと思ってる。

今ちょっとでも彼女がまだ大事だよって思えるなら、このままサヨナラをするべきだね。


昨日、友達と鍋しながら夜通し語り合った。

なんで、特定の人(彼女とか)に対してだけ、器が小さくなってちっぽけな奴に成り下がってしまうんだろうなって。

別に俺らがメールが2,3日来ないからってお互い不満になって「○○のやつ、返事が来ない!!」とか「約束をドタキャンしやがった!!」ってキモイ事いわないよな~って。

依存があるから?・・・答えはわかんない。

でも、この辺が核心のような気がする。

考えるんだ。

最近暖かくなってきたので、またギターかついで街で弾いて来た。

やっぱ気持ち良いです。

いろんな人との出会いもあるし、楽しいです^^

元彼女からメールが来た。

「起こしたらごめん、日曜日あえる?」って・・・。

寂しいのもあるけど、離れるのがお互いのためと思って頑張って耐えてるのに。


本貸してるけど、それは着払いで送れば良いし。(大事な本)


他の男と天秤にかけられる辛さはこりごり。

仲直りの努力は、できるなら惜しまなかったけど、また夏のような経験は絶対にしたくない。


ちょっとした用があるなら電話でいいのに。

怒ってる自分を感じるから、今日はこのまま寝ます。

元彼女から一言だけ、「ごめんね・・・。」ってメールが来た。

なにがごめんなのか分からない。

また隠れてメル友作ってたからごめんなのか?

また隠れて次を見つけておいたからごめんなのか?


夏からの日記を読み直して・・・苦しんでる自分の様を見て、返信しない事にした。

二股なんてされたくないし、メールの放置もされたくないし、約束のドタキャンもされたくないし、隠れてメル友も作られたくないし・・・その上でそういうことする自分を正当化する人とは一緒にはいられない。