相手に対する怒りと悩みを自分自身の「問題」として意識する。
自分の悩みと相手の行動の問題とを、切り離して考えるようにする。
そのために、二つのことをすること。相手の行動に怒りを感じた時、「私は怒っている」と言ってみる。次に、自分の怒りの感情が収まるまでは、相手の行動にどう対処していいかの判断をするのを待つこと。
今は、自分の怒りの感情(「苦悩」や怒りを伴った感情)で、相手の行動をコントロールしようとしている。しかし、その自分の行動によって自分が望んでいない状況をもたらしてしまう事になる。
実は、私たちが、そのときどきの感情で他の人をコントロールしようとする理由は、そのときの私たちが「二歳児」のようになってしまうからだ。そこにもはや大人は存在せず、二歳児のころの行動に戻ってしまう。ただし、このことについて自分を責める必要はない。誰もが自然に実行してしまうことである。自分のその行動を「頑固さ」や「悪」という見方ではなく、「人間として自然なこと」としてとらえることができれば、それは自分の行動の変化を助けるものとなるだろう。
私たちは、生まれてから言葉が話せるようになるまで、両親と様々な合図(シグナル、サイン、信号)によってコミュニケーションをとってきた。痛みや嫌な気持ちを感じると、親を嫌な気分にするようなシグナルを出す事で自分の状態を気づいてもらっていたのである。泣いたり、叫んだり。どの赤ちゃんも、ミルクを求めたり、オムツ代えをせがんだりするために心地よい音色の鐘を鳴らすことはない。それどころか、赤ちゃんの出すシグナル音は、人が無視することが出来ないような嫌悪感を感じる音だ。
誤解してはいけないのは、親が自分の不快感を解消するためだけに赤ちゃんのシグナルに応えているのではない。仮にそうだとすれば、赤ちゃんは生き延びる事が出来ないだろう。両親は、赤ちゃんだった私たちの不快感を自分たちの不快感としてとらえていたのであり、同じように、私たちが幸せな気持ちでいることを、彼らの幸せと感じていたのである。
成長するにしたがって、私たちは状況を理論的に解釈し把握できるようになる。そして、自分がある種の感情表現(不快感を相手に伝えること)をすることで、誰かがそえに反応して動いてくれるということに気づくようになる。また、逆に自分自身も親の感情表現に反応し、動いているということにも気づくようになる。人の感情表現は、多かれ少なかれ、誰かに何らかの行動をさせるものなのだということに気づくのである。
また、ストレス表現、あるいは感情表現の激しさによって、人の反応の仕方を変えることができるということにも気づく。穏やかに接しても相手から反応を得ることができないときには、激しく泣いたり叫んだり、そして怒ってみたりすることで、相手から何らかの反応を引き出すことができるということに気づくのだ。私たちは、そのような経験を通して、自分が欲しいものを表現すればするほどなんでも手に入れやすくなるものなのだと考えるようになってしまう。実は、「欲しい」という人間の欲求は、文字どおり、私たちが持っていない何かに対する苦悩を表現しているのである。
このようなプロセスを通して、私たちは他の人も自分も「意思」というものをもっており、それによって人を動かすのだと思い込むようになる。そして、お互いに自分の「意思」で他人を動かすようになるのだ。両親と私たちとの間でこの「意思」がぶつかりあうと、やがてより強い意思をもっているのは誰なのかという勝ち負けの問題になってしまう。そして、それはやがて、どちらがより相手を恐れさせ、多くなき、長く苦悩にさいなまれるかということの競い合いになってしまう。
幸いなことに、私たちは言葉を話すことができるようになり、幼児期の感情表現とは異なる方法を見つけるようになる。これまでのように、単に自分の「意思」を振りかざして、世の中に対しダダをこねるようなことで問題を解決する以外にも、いくらでも問題解決の方法があるということに気づく。「もし違う方法で取り組めば、問題を抱えることはないだろう」と言ったり、考えることによって問題を解決することができるようになる。つまり、意志の力やかんしゃくを起こしてダダをこねることによってではなく、情報を活用することによって問題を解決することを学ぶようになるのだ。
しかし、私たちの誰もが幼児期の頃の遺産を引き継いでいて、状況によっては時折そのときの感情表現に戻ってしまうことがある。支配と従属のような関係が見られる全ての関係においてはそうだ。例えば、先生と生徒、親と子などの関係はその一部だ。二歳児の頃のような感情がらみの関係に戻ってしまうと言う傾向は、学校、職場、結婚生活(支配と服従の関係におかれた場合)、そして自分の子どもを育てる場合にもありうることだ。
どの関係にあっても、自分の意思と彼らの意思の対立が根底にある。すべての場合において、自分の「不幸な気持ち」で相手と対立してしまっているのである。いずれの問題に関しても、二つに一つの結論しかないと考えている。一つは、自分が彼らに勝って主導権を掌握し、幸せになれるか。あるいは、彼らが勝つことによって、自分が惨めで、気分を害され、望みのない状態に置かれるかのどちらかだ。それら二つの状況は、二歳の頃の自分の物の見方が作り出しているのだ。つまり、相手が自分の苦悩を見て気持ちを察し、自分の望みどおりに動いてくれたときは「自分は彼らから愛された存在」なのだと思うことができる。しかし、もし彼らがそうしてくれなければ「自分は、無力で愛されていない存在」なのだと思うのだ。その対立は絶え間なく続き、まるでどちらが惨めで苦悩しているのかを競い攻撃するコンテストのような状態になってしまう。
しかし、「もっと大人になれ。大人らしく行動しろ。」と自分に対して怒り、自分を攻撃するのは二歳児の方法である。
今、自分がするべきことは、自分が怒っている時は「自分が怒っているのだ」ということを認識し、怒っている間は何もしないということだ。このことができるようになるにつれ、自分は相手が自分を怒らせるたびに「不幸な気持ちコンテスト」の状況に陥ってしまう自分の「癖」から抜け出す事ができるようになるだろう。まず、自分が自分自身を「不幸で惨めな気持ち」に追い込まないようにすること。