被害者と加害者のドラマはやめよう。 | 自閉症、発達障がいのお子さんの気持ちがわかるキネシオロジー

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言葉が遅い、出てこない、話すのが苦手!でも、お子さんは伝えたい言葉をもっていて、それを伝えようとしています。その言葉を受信するには、まずはかかわる人が、素直に受けとめる準備をすること♪自分と仲良くなるセラピーを提供しています。

ここんところ

 
保育士が
子どもを虐待
 
そんなニュースが
あちこちで流れてる。
 
わたしが
真っ先に思ったのは
 
これって
ほんとかな?
ということ。
 
そして
 
教育者も
病んでるんだろうな。
 
あとは
 
ニュースで
繰り返し繰り返し
取り上げるってことは
 
政治的に
うまみがあるから
なんだろうな。
 
ということを思ったよ。
 
あのニュースを見て
子どもを育てている
親御さんたちは
 
仮にも
資格を持った
教育者、支援者が
虐待なんてありえない。
信じられない。
 
さぞかし非難めいた
氣持ちに
なったことでしょう。
 
子育てしていたら
絶対そう思うよね。
 
氣持ちはわからないけど
想像はつく。
 
でも
氣持ちが
わからないついでに
書かせてもらうと
 
非難の氣持ちだけに
ハマってしまうと
それで終わってしまい
それ以上は
何も見えなくなるのも
確かということ。
 
とはいえ
 
自分の命よりも
大切な子どもの命を
育てているんだもん。
ハマってしまうよね。
 
なのでわたしは
親御さんは
まず思わないようなこと、
 
だけど
とっても大事だと思う視点を
書いてみたいと思います。
 
わたしは常々
 
被害者は可哀想。
加害者が全面的に悪い。
 
はたして
そうなんだろうか?
 
ということは
よく思っています。
 
ここを見つめないと
いろんなことを
見誤りがちなんで。
 
虐待をした
保育士たちが
どんな人だったか
 
わたしは知りませんし
知りたいとも
思わないですが
 
本人たちが
子どもに対して
虐待をしている意識が
あったのかなかったのか?
 
それは
どうだったんでしょう。
 
ニュースでは
一面から見た
報道しかしないんで
わからないよね。
 
特にこういうニュースは
絶対と言っていいほど
被害者目線で
報道するのが常。
 
まあそうしないと
世論に
斬られるのかもだけど。
 
真実なんて
見る人が
それぞれの立場で
決めることなんだから
そこを
操作しないでほしいなとは思う。
 
話を戻して^^;
 
保育士たちが
 
虐待と知りつつ
例えばカッとして
やむをえず
ついつい
やってしまったことなのか
 
虐待するつもりは
なかったけど
しつけの一環として
やってしまったのか   
 
他にも
動機はあると思うけど
 
いずれにしても
 
教育する側
支援する側に
余裕がない。
 
それは
確かだと思うのだ。
 
わたしも
支援学校に
長年勤めていたから
わかるけど
 
世間で
こういう事件が
起こるたびに
 
あれはやっちゃいけない。
これもダメ。
 
教育委員会から
通達は来るし
保護者の目は厳しくなるし
 
管理する側からの
締め付けが
かなり厳しくなるのだ。
 
お互いに
監視するような
雰囲氣もあったりして
 
かなり
息苦しかった。
 
わたしが
教員になった
平成5年から
教員を辞めるまでの
20年の間に
 
あれやっちゃダメ
これもダメ、が
増えまくってました。
 
夏頃には
スクールバスの
置き去り事故も
あったでしょ?
 
そういうのを二度と
起こさないようにするために
 
どこの施設でも
業務が
増えまくっていたことは
なんとなく
想像がつきます。
 
ただでさえコロナ禍。
 
氣を使うことも
たくさんあったでしょう。
 
そんな中で
ココロもカラダも病み
休む職員も増えていって
 
現場の息苦しさに
耐えきれず
やめてしまう人が増え
 
雇う側は
とにかく人が足りないから
保育者の人間性より
日々を回すことに
氣をとられ
 
肝心の
保育の質については
おざなり、
 
なんて
 
そんな事情も
あったのではないかな。
 
別に
保育士側の
肩をもつわけではないよ。
 
この保育士たちが
お子さんに対して
したことは
消えないことですから
罪を償ってもらいたい。
 
ただ
こういう不祥事が続くのって
本人たちの
人間性の問題だけではなくて
いろんなことが
複雑に絡み合って
起きているんじゃないかな?
と思う。
 
まともな施設だったら
こういうかかわりをする
保育士がいるっていうのは
まずおかしいし
 
先輩や同僚の指摘が

当然あるべき案件だと思うし

 

保護者からの指摘も

あっただろうし

出来事が大きくなる前に
未然に防げたんじゃないかな?
と思うから。
 
他の職員のことまで
構っているだけの
余裕がない施設なのか
 
自由に
ものを言えない
雰囲気なのか
 
まあ知らないから
このくらいにしておくけど

福祉やら保育の現場は
キツいだろうなと思う。
 
わたしたち
現場に居ない人間が
出来ることは
 
自分を
悪者にしたくないクセ
 
それを
やめるってことかな。
 
もう最近
ずっとの傾向だけど

特にテレビの報道が
そうなんだけど

わたしたちが
被害者意識を
強く持つように
誘導しているように思うのよ。

被害者いるところには
加害者が必ず必要でしょ。

加害者を
次から次へと作っていき
加害者をバッシングする。

自分は被害者だから
悪くないわけ。

巧妙に
自分の中に入ってくるので
なかなか氣づけずに
無意識に入っている人も
いると思う。

でも試しに
そう思って
テレビを見てみて。
 
被害者は可哀想。
加害者が全面的に悪い。
 
結構
うまいこと
自分に入ってきてるのがわかるよ。

そしてね。

被害者は可哀想。
加害者が全面的に悪い。

 
わたし(被害者)は可哀想。
わたし以外の他人(加害者)が
全面的に悪い。

置き換えられると思いません?
 
ここに氣づくことだよね。

とはいえ
テレビは
いけ好かないけど
加害者じゃないのだ。

とにかく
被害者と加害者の
ドラマをやめよう。


そのドラマは
たしかに
自分を不在にして
どうのこうの言えるから
楽かもしれないけど

そして
自分不在だと
その枯渇したエネルギーを
外から埋めようとするから
永遠に終わりはない。

終わらせるには
やっぱり
自分への愛なのだ。

被害者加害者ループに
ハマっているというのは
イコール
愛が不足しているということ。

愛ってね
自分を甘やかすことと
同義だと
とられることが多いから
おかしなことに
なっていくんですが

そうじゃなくて

自分のいいところも
まずいところも
目を見開いて見て
受け入れることね。

それができたら
 
相手に関心を持ち
愛をもって
かかわれるはずだからね。

もちろん
愛は
全受容では無いから

言いにくいことでも
自分が感じたことは
ココロオープンにして
素直に相手に伝える。

ここで
やってしまいがちなのが
相手に
受け入れてもらうことを
目的にしてしまうこと。

それだと
おかしなことになる。

自分への愛で話すことは
受け入れられずとも
見えない部分では
相手に伝わってる。
 
そういう関係性が出来たら
おのずと
こういう事件は
無くなっていくはずだし

ストレスも減るよね。