〔1〕節度を守った権力者

日本の歴史の中で、蘇我氏や藤原氏など時の権力者が皇室に近づき、政治を動かすということがありました。

藤原不比等は、大化の改新の中心人物だった藤原鎌足の次男です。

不比等は長女宮子を文武天皇の后にし、聖武天皇が誕生しました。聖武天皇は藤原不比等の孫です。

不比等はさらに聖武天皇の皇后に娘光明子を嫁がせます。

しかし・・・

不比等は、決して自分が天皇になろうとか、自分が天皇の父になろうとはしませんでした。

皇室に近づくのは、自分の孫を天皇にするところまで。

『我が国は皇族と臣下の区別がはっきりしている』からです。

皇位継承権を持つのは“皇族男性”のみ。

この一線を越えれば、皇族と臣下の境界を突き破ります。

それは、「皇統以外の男系」の男子が皇室に入り込み、皇位が「皇統に属する男系」にとって代わることになります。

藤原氏の血筋が神武天皇の血筋にとって代わることになります。

           ≪ 神武天皇像 奈良市石本町 ≫

皇位につかれた126代全ての天皇は、神武天皇の男系の血筋を継承している方です。

この皇統の歴史を‟確認”したのが、皇室典範第一条です。

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

 

〔2〕“女系天皇”とは、民間男性の子が天皇になること

 5月以降、“女系天皇”を認めると公言する政党が現われました。

 制度として、皇族女性にも皇位継承権を付与し、御結婚後も皇族の身分にとどまり、女性宮家を創設できるようにしようというのです。

 理由は、「皇族男性が少なくなってきたので皇位継承の安定をはかるため」というのですが、真意はどこにあるのでしょうか。

 

 “女系天皇”とは、「民間男性の子を天皇にする」ことです。

“女系天皇”を認めれば、民間男性が皇室に入る扉が開かれます。皇族女性のお相手(夫)は、民間男性となるのはほぼ確実だからです。もし、お相手が皇族男性ならその方が宮家の当主になるはずです。

女性皇族のお相手が、小室圭氏でもいいですか? 

小室圭氏が天皇の父でもいいですか? という話です。

民間男性は日本人とは限りません。

アメリカ人、韓国人、中国人が天皇の父でもいいですか?

女性宮家に民間男性が入れば、宮家は限りなく民間に近づきます。

「夫」のほうを尺度に「家」を見ます。血筋とは“男系”のことであるととらえているからです。これは日本だけでなく世界共通の認識です。

女性宮家にお子様が誕生します。その方が天皇に即位されると、男女を問わず“女系天皇”です。

 “女系天皇”とは、『民間天皇』のことです。(民間男性の子は民間人)

日本人が『民間天皇』を受け入れ、この方を「陛下」と呼ぶことが出来るでしょうか。

「日本も国際的になったねえ」と称賛する外国人がどれだけいるでしょうか。

昔の言い方なら、臣下が天皇になる。臣下による皇位簒奪であり、“道鏡事件”の再来です。

“女系天皇”は、正統性の有無という問題に発展します。皇位継承者として「認める」「認めない」で国論が二分すれば、結論がでるまで天皇不在の事態が起きるかもしれません。

これを防ぐため、皇室典範第十二条があります。

第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

条文の重要さが分かると思います。

 

〔3〕宮家とは血の伴走者

竹田恒泰氏は「日本書紀入門」でこう述べています。

「天皇の地位は、徳があるからとか、国民を思う気持ちが強いからとかによって成り立つものではなく、血統の原理(父親の父親の父親・・・とさかのぼれば初代神武天皇にたどり着くこと)がすべてです。能力主義ではなく、どんなに努力しても、どんなに人格高潔であっても血統の原理から外れた人物は天皇にはなれないのであって・・・」

皇位継承者の正統性とは、このように明確です。

だから、天皇や天皇のご兄弟に男児がお生まれにならなかったときは、皇女ではなく、たとえ血縁が遠くても、神武天皇に繋がる男性を探し、皇位を継承したのです。第25代武烈天皇と第26代継体天皇は10親等離れていました。

 

皇統断絶の危機に備えて、宮家の制度が作られました。鎌倉時代の頃です。

「宮家(=世襲親王家)」とは、皇位継承権者を確保し、天皇家に男児がお生まれにならないときのために備えました。

皇位は、天皇家といくつかの宮家が伴走して繋いでいくという体制を創ったのです。

もし天皇家に男児がいらっしゃらない時は、宮家の中の一つから天皇を出す。そして、これまで続いてきた天皇家は絶える。

宮家から天皇を出した例は、過去3回ありました。

伏見の宮家から後花園天皇、有栖川宮家から後西天皇、閑院宮家から光格天皇が誕生しました。

“男系”のみで継承してきた日本の皇統。

いまでこそ、Y染色体で説明する方もいますが、

「遺伝学がなかったはるか昔から、父親から息子にしか伝わらない何かがあると直感的に知っていた」

とすれば、本当に不思議なことです。

 

〔4〕伏見宮家の歴史

終戦のころまでは14の宮家がありました。

直宮家(天皇の子女兄弟が創設した宮家)が三つと、伏見宮家とそこから枝分かれした11の宮家です。

 

伏見宮家の歴史をたどってみます。

(系図1 下) 南北朝時代がありました。このとき伏見宮家が創設され、終戦まで続きます。

 

   < 系図1 >

伏見宮家創設の後、2つに分かれます。そこを拡大したのが系図2(下)です。

   < 系図2 >

 伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の皇子である栄仁(よしひと)親王がはじまりです。

 伏見宮家は、栄仁親王から第三代貞成親王へ続き、そこから2系統に分かれます。

 真下に続く線と、左に延びる線に分かれます。

 真下の線は、後花園天皇から今上陛下へと続きます。

 左の線は、後花園天皇の弟宮が伏見宮家第四代当主となり、幕末の伏見宮邦家親王へとつながり、11宮家に分かれます。

 まず伏見宮家が先にあって、【正系(天皇位)】の後花園天皇系と【補系】の伏見宮家4代目に分かれました。

 伏見宮家が“傍系”として分枝したという人がいますが、違います。

 分枝したのは【正系】の後花園天皇の系統の方でした。

 後花園天皇の系統から枝分かれして、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家が創設されました。この3宮家は、今上陛下の【正系】に対して、“傍系”と言えます。

 しかし・・・

 伏見宮家は、【正系】に対し【祖系】の立場にあります。

 3宮家に対して別格の宮家でした。

 男子がいらっしゃらなくなった桂宮家、有栖川宮家は絶えました。

 もしも閑院宮家の光格天皇に始まる今上陛下の血統が絶えるとき、祖系にあたる伏見宮家系に戻す。

 これが自然な流れのように思います。

 

〔5〕伏見宮家の正統性

 昭和22年10月、占領下にあってGHQの圧力のもと、直宮家を残して11宮家の皇族の方々が皇籍離脱し、民間人となられました。

 このとき、皇族男性の減少問題は当然予想されていました。

 それが現実になったのです。

 もし、皇籍離脱がなければ今日の皇位継承問題は起きていません。

 旧宮家の正統性は、皇室典範第二条の二項が示す通り明らかです。

 第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。

  一 皇長子

  二 皇長孫

  三 その他の皇長子の子孫

  四 皇次子及びその子孫

  五 その他の皇子孫

  六 皇兄弟及びその子孫

  七 皇伯叔父及びその子孫

○2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。

 

11の旧宮家の方々は、70年前まで皇位継承権をお持ちであり、天皇を出す宮家として暮しておられました。現在、旧朝香宮家、久邇宮家、東久邇宮家、加陽宮家、竹田宮家の5つに男子の方がいらっしゃいます。菊栄親睦会という親交団体があり、旧皇族の方々と皇族の方々との親交は続いています。

 

早急に検討すべきは、旧皇族男系男子の方々の復籍です。

「“愛子天皇陛下”に賛成ですか、反対ですか」

この問いに国民の8割が賛成した、というアンケート結果があるそうです。

「女性天皇」の問題は、その夫となる「皇婿」の問題でもあります。これを抜きに語ることはできません。

 女性天皇の「皇婿」となる方は、次のいずれかです。

A 皇族男性

B 民間人男性

C 不在(つまり生涯独身)

高い確率でCになると思います。

全ての選択肢に問題を含んでおり、皇室の消滅につながりかねません。(その理由は後述します)

 

我が国日本は、公称2679年の歴史を持つ世界最長の国です。

これは、わが国が伝統を重んじる国であるからです。

その日本を支えてきたのが皇室です。

 不易流行

時代を超えて変えてはならないことと、時代に応じて変化させることがあります。

「皇位継承」は、126代にわたり「男系による万世一系」という大原則を例外なく守り続けてきました。

今上陛下の血統が絶えたとき、別の系統に移ることはありましたが、

「神武天皇に連なる男系皇族が皇位につく」

という原則に一つの例外もありません。

明治以降は、皇室典範で定められた「男系“男子”による万世一系」へと発展しました。

現在、秋篠宮家の悠仁親王殿下まで“男系”の糸はつながっています。 

“男系男子による継承”は、皇統維持という目的のための“手段”です。

ですから、“男系継承”を変えることを前提とした“愛子天皇”擁立論は、皇統を断絶することになります。

以下、その理由です。

 

〔1〕 女性天皇は“中継ぎ”だった

過去に、男系女子天皇が八方十代いらっしゃった。この先例をもとにして、

「男子の皇位継承者がいないから、皇女が継承した」というウソが宣伝されています。

日本の歴史に登場された女性天皇は“中継ぎ”であって、次期男系男子天皇がすでに決まっているか、候補者が複数おられる場合に限られていました。

過去の女性天皇を先例とする議論は、まず、男系男子の皇位継承者をどのように確保するのかを議論したあとにすべきです。

持統天皇の場合、かなりの男子の皇位継承者がいました。

ただし、候補者がみな幼少であったので成人されるまでの“中継ぎ”として即位されました。

後継者不足の心配はみじんもありません。

一方、皇位継承者がいないという深刻なケースでは、神武天皇の皇統を受けつぐ傍系から皇位継承者を出し、危機を乗り越えました。

継体天皇、後花園天皇、光格天皇の即位です。

このとき、女性天皇が登場することはなく、検討もされていません。

女性天皇とは、まず男系男子の皇位継承者を確保し、

それが定まった後に“中継ぎ”として女性天皇にどのように即位していただくかを検討する、というのが順序です。

後に述べますが、必然的に“中継ぎ”とならざるを得ないシステムになっていました。

 

もう一つ、女性天皇に関わる重要な条件があり、厳守されてきました。

女性天皇は、“独身”または“出産年齢を超えられた寡后”であること。

つまり、ご懐妊は禁止されていました。この条件を満たしている場合に限って女性を天皇の位につけました。 

八方のなかで四方の女性天皇は生涯独身でした。

もう四方は、皇太子妃または皇后としてご結婚されましたが、即位の際は寡后でした。

皇統二千年の歴史には、女系天皇と女系の皇子・皇女は一人も誕生していません。

「女系の皇胤はゼロ」が守られてきました。

 

「女性天皇は過去に存在した」というのは事実の半分です。

明治時代までは、「ご結婚されず皇配が禁じられている女性天皇がおられた」のです。

女性天皇を制度として認めるのであれば、“ご結婚の禁止”を伴います。

明治の皇室典範が皇位継承を男系男子に限定する経緯はここにあります。

“ご結婚されず皇配が禁じられている女性天皇”を制度化することは新しい時代にはできない、皇統維持するためには先例となる女性天皇を禁止するしかない、というのが皇室典範を起草した井上毅の判断でした。

現・皇室典範に第十二条「皇族女子の婚姻による臣籍降下」も「女系の皇胤はゼロ」を守るための条項です。

「中継ぎだった女性天皇」と「女性天皇のご懐妊禁止の原則」

 この事実を皇族の方々がご存知ないはずはありません。

 「愛子天皇陛下」に賛成の人達は、愛子内親王殿下に“独身”を強要するつもりなのでしょうか。

国民にもしっかりと事実を示したうえで、賛否を問うていただきたいと思います。

 

〔2〕 女性宮家は皇統断絶をまねく 

皇室は、全ての女性が皇室に入ることが出来る可能性を含んだ仕組みになっています。

別の言い方をすれば、全ての女性が天皇の母になる可能性を含んだ仕組みです。

上皇后陛下も皇后陛下も秋篠宮妃殿下も民間人でした。

一方、民間人男性が皇室に入ることは絶対に許されません。

一旦臣籍降下(民間人となる)した男性も、“原則”として皇室に戻れません。

 

歴史上、時の権力者が皇室に近づこうとしたことがありました。

まず、自分の娘を天皇に嫁がせて皇族となる。その娘が皇子を生む。

すると娘は天皇の母となり、自身は天皇の祖父となる。

皇室に近づくのはこれが限度でした。

どれほどの権力があっても、民間人男性は皇族になれません。

 

「宮家」は、皇位継承権のある男系男子を当主とする皇族ご一家のことです。

天皇の血筋が絶えるという危機に際して、皇位継承者を確保するためにあります。

現在、宮家当主である秋篠宮殿下と、そのお子様の悠仁親王殿下まで皇統はつながっています。

しかし、今のままだと、悠仁「天皇陛下」御即位のときの宮家はゼロです。

悠仁親王殿下に男児の御誕生が無ければ、皇統は絶えます。

このような現状の中で浮上してきたのが「女性宮家」の創設です。

制度として、「女性皇族にも皇位継承権を付与し、結婚しても(女性)宮家の当主として皇族に留まっていただこう」というものです。

 

女性宮家も、「皇婿」の問題です。

男系男子の皇族が減少または不在なのですから、女性皇族の「夫」は民間人となるのはほぼ確実です。

民間人男性が内親王殿下と結婚しても民間人のままです。

皇室の絶対的な原則はくずれません。

「夫」の方を尺度に「家」を見るのは、日本人でも世界の人々でも共通しています。

例えば、歌舞伎界で「世襲」といえば、男系男子のみに限定しています。わざわざ「男系男子の世襲」とは言いません。

皇統の「世襲」もまた同じです。

女性宮家に民間人男性が入れば、宮家は限りなく民間に近づきます。

具体的に申し上げるのは恐れ多い事ですが、愛子内親王殿下が民間人とご成婚なされば、皇族でありながら民間人に見られてしまうのは防ぎようがありません。

民間人男性の皇婿を迎えた「女性宮家」の子孫が男子でも女子でも天皇に即位すれば「女系天皇」です。

そこに、神武天皇から続く血統はありません。

2679年の歴史ある皇室は消滅します。 

これが「女性宮家」の実態です。

 

次に、女性皇族に“皇位継承権を付与する”ということについてです。

女性皇族の方々、例えば、愛子様、眞子様、佳子様は幼いときから、ご結婚を機として皇族を離れることを前提に育ってこられました。

それをいきなり「皇位継承権(義務)を付与します。継承順位は〇番目です」というのです。

このようなことを望んでらっしゃると思いますか。

当事者の方々のお考えを聞かずして決められることでしょうか。

「男女平等」を盾に皇位継承権を強要するつもりなのでしょうか。

 

そしてご結婚となれば、眞子様のようにワイドニュースの話題にもなります。

それが、天皇の「皇婿」となれば、候補者探しはどれほど難しい事でしょうか。

困難を極め、「夫不在、子も不在」という事態が起きれば、未婚の皇族女性がたった一人で天皇の重責を背負う最悪の事態が起こります。

しかも、女性天皇をお支えする男性皇族がほとんどいない状況の中です。

 これを「安定的な皇位継承者の確保のための解決方法」というのでしょうか。

「女性宮家」とは、仮面をかぶった「現皇室を消滅させる方法」だと言わざるを得ません。

 

〔3〕旧皇族の皇籍復帰こそ唯一の方法

ここまで、「女性天皇」・「女性宮家」について述べてきましたが、選択肢はもう一つあります。

「旧皇族の皇籍復帰」です。

旧皇族には、少なからず男系男子がおられます。

継承者の問題は、戦後、皇籍離脱された旧皇族の方々が復籍されれば済みます。

「女性天皇」と違い、126代にわたる皇位継承の大原則は守られます。

これ以外に、皇統を維持する方法はありません。

 

皇位継承者の減少・不在の問題がおきることを想定して、宮家を創り維持されてきました。

今上陛下の血統が絶えるときのために、皇統を継ぐ体制は整っていました。

もし、戦後まで維持されていた11の宮家が皇籍を離脱することがなければ、現在の継承者の危機は起きていません。

日本がGHQの占領下という異常な時期であった昭和22年10月、11宮家51人は皇籍を離脱されました。

11宮家が皇籍離脱されるとき、今日の危機は当然予想されていました。

それが現実になったのです。

そうであれば、当時の状況を考たうえで、旧皇族の方々に復籍していただければ簡単に解決します。

危機は実態においては存在しません。

諸「宮家」は今も立派に現存されています。

早急に検討すべきは「旧皇族の皇籍復帰」です。

 

新天皇践祚(皇位を受け継ぐ)が終わりました。
早速、“皇位継承の安定化”と称する意見が出始めています。

皇位継承を真に安定させるのか、混乱を招くのか、それとも崩壊させるのか。

今こそ真剣に考えるときです。
 

産経新聞(5/2)朝刊2面の阿比留氏の記事「皇位継承 伝統の重み」を読みましたが、理解できませんでした。
しかし・・・・
倉山満氏の論文(5/1発表)を精読して、阿比留氏の言わんとすることが分かりました。
iRONNA“「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか”


以下、阿比留氏の記事の一部抜粋【1】と倉山氏の論文【2】を紹介します。


【1】産経新聞朝刊(5/2)2面の阿比留氏の記事
■ ここから ■
 「壬申の乱に・・・」
一番の問題は、女性・女系天皇の容認は、取り返しのつかない大きな混乱を招きかねないことである。
平成18年2月、宮内庁が秋篠宮妃紀子さまのご懐妊の兆候を発表した際、女性・女系天皇を認める皇室典範改正に熱心な当時の小泉純一郎首相と、慎重派の安倍晋三官房長官との間でこんなやり取りがあった。
安倍長官「誠におめでたい事ですが、これで皇室典範改正はよくよく慎重にしなければならなくなりました」
小泉首相「なぜだ」
安倍長官「生まれてくるお子様が男子でしたら、皇室典範改正は正統な皇位継承者であるお子様から継承権を奪ってしまうことになります。(皇子同士が皇位継承で争った)壬申の乱になりかねません」
小泉首相「・・・そうか」
皇室の悠久の歴史の中で守り続けられた男系継承という伝統を、後世の浅知恵で曲げれば、皇位の安定的継承どころかかえって禍根を残すことになろう。
■ ここまで ■


【2】倉山満氏の論文はここから読めます。
https://ironna.jp/article/12479?p=1&fbclid=IwAR2O_ab21etAAJ_4D1yi9uVQtBjnGJ7AazwgCxwRZcH_bzQprM6Ce8iJVpY

 

 

愛車“ZZR250”でバイクツーリングに行ってきました。

 

4月26日(金)~27日(土)、行先は伊良湖岬。

2日間の走行距離は550km。(奈良の自宅から伊良湖岬を往復)

今回は、10年間私のもとにあった“ZZR250”での最後のツーリンです。

つまり、愛車とのお別れツーリングをしたわけです。

これが、平成のラストランと重なりました。

※ 途中立ち寄った岡崎公園

 

もう一つの目的は、名古屋で味噌カツを食べること。

最近、日本の伝統食“味噌”にはまっています。

なぜ味噌かというと、味噌には、驚くパワーがあります。

例えば、

① 味噌の中では、0157は生きていられない。

② 味噌が、放射線を分解・無害化する。

(長崎原爆投下の際、患者や看護師らが味噌、塩、玄米摂取を徹底したことで、全員が被爆症状を訴えなかったそうです)

③ がんは、味噌が苦手というデータがある。

等々、味噌は最強の食べ物です。

最近は、土井善晴氏の提案に賛同して、“具沢山味噌汁”を作ることがあります。

 

味噌と並ぶもう一つの食べ物が玄米です。

玄米は20代のころから注目していましたが、家族で一人だけ玄米食という訳にもいきませんでした。

今では、我が家は、玄米を購入します。

一晩水に浸けておけば、炊飯器の玄米モードでふっくらと炊き上がりますよ。

(最近始めたばかりですが・・・)

と、こんなことを書くと、玄米菜食主義者かと思う人がいるかもしれませんが、肉もラーメンもスイーツも大好きな人間です。

カップケーキ 焼肉 ラーメン コーヒー

食事の好き嫌いはほぼ無し。

なんでもおいしくいただきます。

 

話をツーリングに戻します。

私は、ほとんどがソロツーリングです。

それには理由があります。

バイクに乗ると、思っている以上に体が疲れます。

ツーリング中は、走るスピードや休憩の取り方、食事、睡眠など、身体の声を聞きながら決して無理はしません。

夜は、午後8時に寝床に入り、zzz  翌日目覚めたのは午前4時でした。

出発の準備をして、コンビニで買った味噌汁とおにぎりをいただき、6時半に宿を出ました。

 

宿泊は、レッドバロン直営のバイクステーションを利用しました。

※ 寝るだけで何もない ライダーはこれでヨシ

 

レッドバロンというのは、バイクを販売・修理・バイクライフをサポートをする会社です。

バイクステーションとは、レッドバロンでバイクを購入した会員だけが利用できる施設です。

ここは全てセルフサービスです。

※ 部屋と車庫が隣り合わせ

 

私が利用した日は、他に7~8名の方がいたように思います。

もちろん、ライダーばかりです。年齢層は20代から60代まで様々でした。

夜は静かに過ごし、遅くまで話声は聞こえてきません。

しっかり眠って、疲れを取ります。

そして、ライダーの朝は早い。

翌日5時には、誰かがエンジンをかけています。

出発の準備です。

一日中バイクを走らせても飽きない人達ばかりです。

 

2日目は、冬型の気圧配置となって、北寄りの風が吹き荒れました。

伊良湖岬は、風を遮るものが何もないところ。波

立っていられないほどの強風でした。

予想していましたが、強風と季節外れの寒さに体の熱を奪われ続けます。

特に、帰りは向かい風になりました。

スピードを上げるとふらついて転倒しそうになります。

橋の上や高架を走るときは危険なほどです。

こういうこともあるので、体調管理を怠ることはできません。

と同時に、バイクにも守られながら無事帰ることが出来たように思います。

 

このZZR250を買ったのは、神話のふるさと高千穂を巡るのがきっかけでした。

それから10年間、いろんなところにお供してくれたバイクでした。

まだまだ行きたいところはありますが、このバイクの役目は終わろうとしています。完了

ご苦労様でした。そして、ありがとう、“ZZR250”拍手

 

 

平成28年8月8日の天皇陛下の御言葉で、“譲位”が動き出しました。

 

【1】先例を尊ぶ文化

日本は、国の古さでは世界一です。

公式の歴史書によれば、今年(平成31年)は神武天皇から数えて2679年目です。

最長の歴史を持つ国です。

日本人が、日本と皇室の歴史を受け継いできたからこそ、今につながっています。

ですから、わが国では先例を尊ぶ文化が育ちました。

ご先祖様の歩んでこられた歴史の中に、正しいこと、手本となることを謙虚に探し求めてきました。

その中心は皇室です。

 

平成30年3月、内閣は次のように発表しました。

「2019年4月30日の天皇陛下の退位、翌5月1日の皇太子さまの新天皇即位」

今年は,125回目の皇位継承が行われます。

報道によれば、今上陛下は光格上皇の事例を調べるように求められました。

大切なことは、準備を進めるにあたって、いかにして皇位は受け継がれ、続いてきたのかを調べることです。

今回、わが国日本と皇室の歴史を学ぶ機会を頂いたことに感謝いたします。

 

【2】「践祚」か「即位」か

天皇の皇位継承には二通りあります。

  (ア)「譲位」による皇位継承  

  (イ)「崩御」による皇位継承

 

(ア)の場合、天皇は上皇となります。

天皇を辞めた方に送られる尊号が「太上天皇(上皇)」です。

今上陛下は、譲位して上皇となります。

光格上皇以来200年ぶりの上皇誕生です。

今を生きる我々にとって、初めて目にする御存在となります。

では、歴史上天皇の位につかれた方は何名いらっしゃり、そのうち何名の方が上皇となられたのでしょうか。

今上陛下を含めると、128名中61名の方が上皇でした。

半数近い天皇が上皇です。

皇室の長い歴史から見れば、上皇は身近な存在であったことが分かります。

 

ところが、現在は、(イ)の崩御による皇位継承に限定しています。

旧と新の皇室典範で確かめます。

 

旧皇室典範(明治22年)

第10条「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚して祖宗の神器をうく」

新皇室典範(昭和22年)

第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 

「崩御による皇位継承に限定」するのは明治以降です。

 旧新の二つの条文をよく見ると、言葉に変化が見られます。

旧皇室典範は、「践祚」を使い、新皇室典範は、「即位」を使っています。

旧 第10条「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚して祖宗の神器をうく」

 新 第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 「践祚」も「即位」も同じ文脈の中で使われていますから、同じ意味のように思ってしまいます。

しかし、両者の本来の意味は異なります。

「践祚」とは、「先帝から皇位を継承すること」です。

例えば、持統天皇から文武天皇へ皇位が継承されました。

 

持統天皇(譲位)

    ⇩

文武天皇(受禅)

 

皇位を譲る持統天皇側から見た言葉を「譲位」といい、譲られる文武天皇側から見た言葉を「受禅」といいます。

譲位と受禅は同時です。

隙間がありません。

天皇の“連続性”を表します。

 

では、文武天皇の「即位」はいつだったのでしょうか。

「即位」とは、「新天皇が高御座という玉座につかれ、即位を内外に宣言すること」です。

文武天皇は、受禅をした十日余り後に即位の詔が発せられました。

後柏原天皇にいたっては、践祚から即位まで21年かかりました。応仁の乱の直後のことです。

皇位継承を「退位」と「即位」で考えると、21年間は「空位」だったことになります。

仮に、先帝の退位の瞬間に「即位した」としても、「即位」自体は、皇位の連続性を含みません。

ですから、次の手順を踏まなければなりません。

「先帝退位」➡「新帝践祚」➡「新帝即位」

「践祚」と「即位」を分ける習慣が出来たことによって、戦乱の時代でも天皇の連続性が可能でした。

今回の皇位継承はこうなりました。

「先帝退位」(4月30日)➡「新帝即位」(5月1日)➡ 「即位の礼」(10月22日)

 「即位」を「践祚」の意味で使用し、「即位の礼」を「即位」の意味で使用しているように思われます。

 “践祚”を使わなくなったのは、敗戦後からです。

 

【3】「上皇宣下」の意味

<1> 「上皇宣下」という慣習

 譲位した天皇は「太上天皇」となります。これには特別な手続きはありません。

 ところが、嵯峨天皇の譲位のとき、「上皇宣下」という出来事がありました。

 これです。

① 第52代嵯峨天皇は、譲位後に「太上天皇」の尊号を辞退します。

② 次の第53代淳和天皇は、辞退した嵯峨天皇に対して「上皇」の尊号を宣下(天皇が命じる)します。

③ 嵯峨天皇はこれを受け入れます。嵯峨上皇が誕生しました。

 この「上皇宣下」が先例となり、江戸時代まで慣習として続きます。

今上陛下が上皇となるとき、この先例が踏襲されるかどうか、注視すべき点です。

 

 「上皇」と聞けば、「院政」を思いうかべる人は多いかと思います。

「院政」というのは、天皇の位を退いたお父さんが、息子である天皇に変わって政務を執ったことをさします。

白河、鳥羽、後鳥羽の歴代上皇または法皇が実権を握った時期です。

 しかし、上皇になったからといって、必ず上皇が実権を握ったというわけではありません。

 「上皇は国政にたずさわらない」を理念とした正親町上皇や光格上皇もいます。

今上陛下は譲位にあたり、光格上皇の事例を調べるように求められました。

先例の第一とすべき上皇ですが、その前に、先ほどの「嵯峨上皇」以来の慣例を詳しく見ておきます。

 

<2> 「上皇宣下」の意味すること 

 皇位は、平城天皇から嵯峨天皇、淳和天皇へと受け継がれました。

 平城天皇(51)  

    ⇓

 嵯峨天皇(52) 

    ⇓

 淳和天皇(53)

先ほどの通り、嵯峨天皇は、「太上天皇」の尊号をいったん辞退しましたが、淳和天皇から「上皇」の尊号を宣下(天皇の命を公文書にして伝える)されて受け入れました。

 「譲位した天皇が太上天皇の尊号を辞退する。新天皇が上皇宣下をする」 

 なぜ、このような面倒なことをするのでしょうか。

 理由は、一代前にさかのぼります。

 嵯峨天皇は、兄の平城天皇から皇位を受禅しました。

その時、太上天皇となった平城上皇との間で、「実権を握るのはどちらか」という争いが起こります。

 平城上皇 VS 嵯峨天皇 

 事を始めたのは嵯峨天皇からでした。

この経験から、嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位した時、太上天皇の尊号を固辞したのです。

権力をふるおうと思わなくても影響力のある天皇はいます。

嵯峨天皇は、やめた天皇(自分)が影響力を持つことを恐れました。

平安末期の院政のようなことが起きるのを想定し、これを避けようとしたのでした。

しかし、尊号の固辞により、先帝の身分が定まらないという事態が起きます。

そこで、新天皇である淳和天皇が、「先帝を上皇としますよ」とわざわざ宣下する(命じる)という妥協案が採用されました。

こうすることにより、宣下する側とされる側で上下関係がはっきりします。

ここに、「政治の実権はありませんと、あらかじめ確認された太上天皇(上皇)」が日本の歴史上に登場しました。

 

光格上皇はどうだったのでしょうか。

 実権がある方を枠囲みしました。

 ① 上皇  天皇  ➔  自然な状態

 ② 上皇  天皇  ➔  院政

 光格上皇の場合、①の状態です。

朝廷の決定権は天皇側にありました。

 譲位後は、息子の仁孝天皇に政務委譲して、関わりませんでした。

光格上皇はあくまでも「内慮」というかたちで「禁裏」に意向を伝え、仁孝天皇を立て、後見しました。

光格帝は、上皇としては穏やかに過ごされました。 

 

【4】「皇太子」不在の特例法

 宮内庁の組織は、長官官房のほか、侍従職、東宮職、式部職の三職があります。

 東宮とは、皇太子・皇太孫・皇太弟のことをいいます。

 今回の譲位にあたり、皇室典範特例法は皇太子の“位”をなくしました。

 以下は、今年の5月1日以降の“位”です。

 ① 天皇陛下  ⇒  【上皇陛下】

 ② 皇后陛下  ⇒  【上皇后陛下】 

 ③ 皇太子殿下 ⇒  【天皇陛下】

 ④ 雅子妃殿下 ⇒  【皇后陛下】

 ⑤ 秋篠宮殿下 ⇒  【皇嗣殿下】  

 この中で、皇室の歴史上なかった称号が2つあります。

 【上皇后陛下】と【皇嗣殿下】です。

 わざわざ新しい称号を作らなくても、【皇太后陛下】・【皇太弟殿下】があるのです。

皇室典範の称号規定を確認します。

 

皇室典範

(皇族の称号規定)

第8条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。 

 

譲位後に天皇の弟となられる秋篠宮殿下の称号規定がありません。

皇室典範は、父から息子へ、或いは孫へという直系の継承しか想定していないからです。

そこで、秋篠宮殿下の次の“位”を特例法でこう規定しました。

 

特例法 第5条(皇位継承後の皇嗣)

第2条の規定による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による。

 

秋篠宮殿下の“位”は、皇嗣(皇位継承者)ですが、皇太子ではありません。

「皇太子」と“同等の待遇”ですが、“同等”ではありません。

 

この違いと皇室典範第11条との関係を見ていきます。

 

皇室典範

第11条 年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

2  親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

 

Q 皇太子は、皇族の身分を離れることはあるでしょうか。

条文中に(皇太子及び皇太孫を除く。)とあります。

皇太子・皇太孫は、仮にやむを得ない事情があっても皇族の身分を離れることはできない特別なお立場です。

当然です。

践祚・受禅の皇嗣がいなければ皇位に空位が生じることになります。

第11条2にある「皇太子」「皇太孫」とは、あれこれと事由を述べる必要など全くない、自動的に皇位につく特別な皇嗣のことです。

「皇太子」も「皇太孫」も「皇太弟」も“位”を表す名詞です。

ところが、「皇嗣」は、もともと皇位継承第一位という意味の抽象語で、“位”を表す名詞ではありません。

それを、特例法は無理やり“位”を表すとしたのです。

「皇太子」の“位”を空位のままにして、譲位後に秋篠宮殿下が皇嗣殿下となられます。

皇太子や皇太孫以外の“皇嗣”である場合は、条文通りに読めば第11条2(皇族に身分を離れる)の適用があります。

しかし、「皇太弟」であれば、「皇太子」と同等であり、皇室典範第11条2の適用はできません。

退位を巡る有識者会議と称する組織は、次のように合意しました。

「秋篠宮さまの処遇については、『皇太子』や『皇太弟』の称号は使用せず」

なぜ、秋篠宮殿下を「皇太弟」としなかったのでしょうか。

疑問が残ります。

 

【5】歴史と先例を踏まえた“特例法”

 皇室の歴史や光格天皇の先例を踏まえれば、どのような特例法になるのでしょうか。

 以下、中川八洋氏の著書から引用します。

 

表題 「今上天皇のご譲位に関わる皇室典範増補」

(譲位・受禅・即位)

第一条 光格天皇の先例に倣い、今上天皇陛下がご譲位されるに伴い、皇太子殿下は直ちに受禅される。

   2 皇太子殿下の即位の大礼は、政令で定める。

(譲位と受禅の日)

第二条 今上天皇陛下の御譲位の日、すなわち皇太子殿下が受禅される日は、政令で定める。

(上皇)

第三条 ご譲位後の今上陛下は、上皇となられる。

  その他 敬称は陛下。喪儀及び陵墓は天皇の例による。

(上皇后)

第四条 上皇の后は、上皇后となられる。

   その他 敬称は陛下。皇太后の例による。

(皇太弟)

第五条 第一条が定める皇太子殿下の受禅によって新たに皇位継承第一位となられる皇嗣は、皇室典範第八条が定める皇太子と同じ皇太弟の位を継がれ、東宮となる。

 2 「皇太子」に係る皇室典範の規定はすべて、皇太弟に置き換える。

 3 皇太弟の立太子の礼は、政令で定める。

 

≪参考・引用図書≫

・「国民が知らない上皇の日本史(倉山満)」祥伝社新書

・「日本一やさしい天皇の講座(倉山満)」扶桑社新書

・「徳仁≪新天皇≫陛下は、最後の天皇(中川八洋)」ヒカルランド