平成28年8月8日の天皇陛下の御言葉で、“譲位”が動き出しました。

 

【1】先例を尊ぶ文化

日本は、国の古さでは世界一です。

公式の歴史書によれば、今年(平成31年)は神武天皇から数えて2679年目です。

最長の歴史を持つ国です。

日本人が、日本と皇室の歴史を受け継いできたからこそ、今につながっています。

ですから、わが国では先例を尊ぶ文化が育ちました。

ご先祖様の歩んでこられた歴史の中に、正しいこと、手本となることを謙虚に探し求めてきました。

その中心は皇室です。

 

平成30年3月、内閣は次のように発表しました。

「2019年4月30日の天皇陛下の退位、翌5月1日の皇太子さまの新天皇即位」

今年は,125回目の皇位継承が行われます。

報道によれば、今上陛下は光格上皇の事例を調べるように求められました。

大切なことは、準備を進めるにあたって、いかにして皇位は受け継がれ、続いてきたのかを調べることです。

今回、わが国日本と皇室の歴史を学ぶ機会を頂いたことに感謝いたします。

 

【2】「践祚」か「即位」か

天皇の皇位継承には二通りあります。

  (ア)「譲位」による皇位継承  

  (イ)「崩御」による皇位継承

 

(ア)の場合、天皇は上皇となります。

天皇を辞めた方に送られる尊号が「太上天皇(上皇)」です。

今上陛下は、譲位して上皇となります。

光格上皇以来200年ぶりの上皇誕生です。

今を生きる我々にとって、初めて目にする御存在となります。

では、歴史上天皇の位につかれた方は何名いらっしゃり、そのうち何名の方が上皇となられたのでしょうか。

今上陛下を含めると、128名中61名の方が上皇でした。

半数近い天皇が上皇です。

皇室の長い歴史から見れば、上皇は身近な存在であったことが分かります。

 

ところが、現在は、(イ)の崩御による皇位継承に限定しています。

旧と新の皇室典範で確かめます。

 

旧皇室典範(明治22年)

第10条「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚して祖宗の神器をうく」

新皇室典範(昭和22年)

第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 

「崩御による皇位継承に限定」するのは明治以降です。

 旧新の二つの条文をよく見ると、言葉に変化が見られます。

旧皇室典範は、「践祚」を使い、新皇室典範は、「即位」を使っています。

旧 第10条「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚して祖宗の神器をうく」

 新 第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 「践祚」も「即位」も同じ文脈の中で使われていますから、同じ意味のように思ってしまいます。

しかし、両者の本来の意味は異なります。

「践祚」とは、「先帝から皇位を継承すること」です。

例えば、持統天皇から文武天皇へ皇位が継承されました。

 

持統天皇(譲位)

    ⇩

文武天皇(受禅)

 

皇位を譲る持統天皇側から見た言葉を「譲位」といい、譲られる文武天皇側から見た言葉を「受禅」といいます。

譲位と受禅は同時です。

隙間がありません。

天皇の“連続性”を表します。

 

では、文武天皇の「即位」はいつだったのでしょうか。

「即位」とは、「新天皇が高御座という玉座につかれ、即位を内外に宣言すること」です。

文武天皇は、受禅をした十日余り後に即位の詔が発せられました。

後柏原天皇にいたっては、践祚から即位まで21年かかりました。応仁の乱の直後のことです。

皇位継承を「退位」と「即位」で考えると、21年間は「空位」だったことになります。

仮に、先帝の退位の瞬間に「即位した」としても、「即位」自体は、皇位の連続性を含みません。

ですから、次の手順を踏まなければなりません。

「先帝退位」➡「新帝践祚」➡「新帝即位」

「践祚」と「即位」を分ける習慣が出来たことによって、戦乱の時代でも天皇の連続性が可能でした。

今回の皇位継承はこうなりました。

「先帝退位」(4月30日)➡「新帝即位」(5月1日)➡ 「即位の礼」(10月22日)

 「即位」を「践祚」の意味で使用し、「即位の礼」を「即位」の意味で使用しているように思われます。

 “践祚”を使わなくなったのは、敗戦後からです。

 

【3】「上皇宣下」の意味

<1> 「上皇宣下」という慣習

 譲位した天皇は「太上天皇」となります。これには特別な手続きはありません。

 ところが、嵯峨天皇の譲位のとき、「上皇宣下」という出来事がありました。

 これです。

① 第52代嵯峨天皇は、譲位後に「太上天皇」の尊号を辞退します。

② 次の第53代淳和天皇は、辞退した嵯峨天皇に対して「上皇」の尊号を宣下(天皇が命じる)します。

③ 嵯峨天皇はこれを受け入れます。嵯峨上皇が誕生しました。

 この「上皇宣下」が先例となり、江戸時代まで慣習として続きます。

今上陛下が上皇となるとき、この先例が踏襲されるかどうか、注視すべき点です。

 

 「上皇」と聞けば、「院政」を思いうかべる人は多いかと思います。

「院政」というのは、天皇の位を退いたお父さんが、息子である天皇に変わって政務を執ったことをさします。

白河、鳥羽、後鳥羽の歴代上皇または法皇が実権を握った時期です。

 しかし、上皇になったからといって、必ず上皇が実権を握ったというわけではありません。

 「上皇は国政にたずさわらない」を理念とした正親町上皇や光格上皇もいます。

今上陛下は譲位にあたり、光格上皇の事例を調べるように求められました。

先例の第一とすべき上皇ですが、その前に、先ほどの「嵯峨上皇」以来の慣例を詳しく見ておきます。

 

<2> 「上皇宣下」の意味すること 

 皇位は、平城天皇から嵯峨天皇、淳和天皇へと受け継がれました。

 平城天皇(51)  

    ⇓

 嵯峨天皇(52) 

    ⇓

 淳和天皇(53)

先ほどの通り、嵯峨天皇は、「太上天皇」の尊号をいったん辞退しましたが、淳和天皇から「上皇」の尊号を宣下(天皇の命を公文書にして伝える)されて受け入れました。

 「譲位した天皇が太上天皇の尊号を辞退する。新天皇が上皇宣下をする」 

 なぜ、このような面倒なことをするのでしょうか。

 理由は、一代前にさかのぼります。

 嵯峨天皇は、兄の平城天皇から皇位を受禅しました。

その時、太上天皇となった平城上皇との間で、「実権を握るのはどちらか」という争いが起こります。

 平城上皇 VS 嵯峨天皇 

 事を始めたのは嵯峨天皇からでした。

この経験から、嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位した時、太上天皇の尊号を固辞したのです。

権力をふるおうと思わなくても影響力のある天皇はいます。

嵯峨天皇は、やめた天皇(自分)が影響力を持つことを恐れました。

平安末期の院政のようなことが起きるのを想定し、これを避けようとしたのでした。

しかし、尊号の固辞により、先帝の身分が定まらないという事態が起きます。

そこで、新天皇である淳和天皇が、「先帝を上皇としますよ」とわざわざ宣下する(命じる)という妥協案が採用されました。

こうすることにより、宣下する側とされる側で上下関係がはっきりします。

ここに、「政治の実権はありませんと、あらかじめ確認された太上天皇(上皇)」が日本の歴史上に登場しました。

 

光格上皇はどうだったのでしょうか。

 実権がある方を枠囲みしました。

 ① 上皇  天皇  ➔  自然な状態

 ② 上皇  天皇  ➔  院政

 光格上皇の場合、①の状態です。

朝廷の決定権は天皇側にありました。

 譲位後は、息子の仁孝天皇に政務委譲して、関わりませんでした。

光格上皇はあくまでも「内慮」というかたちで「禁裏」に意向を伝え、仁孝天皇を立て、後見しました。

光格帝は、上皇としては穏やかに過ごされました。 

 

【4】「皇太子」不在の特例法

 宮内庁の組織は、長官官房のほか、侍従職、東宮職、式部職の三職があります。

 東宮とは、皇太子・皇太孫・皇太弟のことをいいます。

 今回の譲位にあたり、皇室典範特例法は皇太子の“位”をなくしました。

 以下は、今年の5月1日以降の“位”です。

 ① 天皇陛下  ⇒  【上皇陛下】

 ② 皇后陛下  ⇒  【上皇后陛下】 

 ③ 皇太子殿下 ⇒  【天皇陛下】

 ④ 雅子妃殿下 ⇒  【皇后陛下】

 ⑤ 秋篠宮殿下 ⇒  【皇嗣殿下】  

 この中で、皇室の歴史上なかった称号が2つあります。

 【上皇后陛下】と【皇嗣殿下】です。

 わざわざ新しい称号を作らなくても、【皇太后陛下】・【皇太弟殿下】があるのです。

皇室典範の称号規定を確認します。

 

皇室典範

(皇族の称号規定)

第8条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。 

 

譲位後に天皇の弟となられる秋篠宮殿下の称号規定がありません。

皇室典範は、父から息子へ、或いは孫へという直系の継承しか想定していないからです。

そこで、秋篠宮殿下の次の“位”を特例法でこう規定しました。

 

特例法 第5条(皇位継承後の皇嗣)

第2条の規定による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による。

 

秋篠宮殿下の“位”は、皇嗣(皇位継承者)ですが、皇太子ではありません。

「皇太子」と“同等の待遇”ですが、“同等”ではありません。

 

この違いと皇室典範第11条との関係を見ていきます。

 

皇室典範

第11条 年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

2  親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

 

Q 皇太子は、皇族の身分を離れることはあるでしょうか。

条文中に(皇太子及び皇太孫を除く。)とあります。

皇太子・皇太孫は、仮にやむを得ない事情があっても皇族の身分を離れることはできない特別なお立場です。

当然です。

践祚・受禅の皇嗣がいなければ皇位に空位が生じることになります。

第11条2にある「皇太子」「皇太孫」とは、あれこれと事由を述べる必要など全くない、自動的に皇位につく特別な皇嗣のことです。

「皇太子」も「皇太孫」も「皇太弟」も“位”を表す名詞です。

ところが、「皇嗣」は、もともと皇位継承第一位という意味の抽象語で、“位”を表す名詞ではありません。

それを、特例法は無理やり“位”を表すとしたのです。

「皇太子」の“位”を空位のままにして、譲位後に秋篠宮殿下が皇嗣殿下となられます。

皇太子や皇太孫以外の“皇嗣”である場合は、条文通りに読めば第11条2(皇族に身分を離れる)の適用があります。

しかし、「皇太弟」であれば、「皇太子」と同等であり、皇室典範第11条2の適用はできません。

退位を巡る有識者会議と称する組織は、次のように合意しました。

「秋篠宮さまの処遇については、『皇太子』や『皇太弟』の称号は使用せず」

なぜ、秋篠宮殿下を「皇太弟」としなかったのでしょうか。

疑問が残ります。

 

【5】歴史と先例を踏まえた“特例法”

 皇室の歴史や光格天皇の先例を踏まえれば、どのような特例法になるのでしょうか。

 以下、中川八洋氏の著書から引用します。

 

表題 「今上天皇のご譲位に関わる皇室典範増補」

(譲位・受禅・即位)

第一条 光格天皇の先例に倣い、今上天皇陛下がご譲位されるに伴い、皇太子殿下は直ちに受禅される。

   2 皇太子殿下の即位の大礼は、政令で定める。

(譲位と受禅の日)

第二条 今上天皇陛下の御譲位の日、すなわち皇太子殿下が受禅される日は、政令で定める。

(上皇)

第三条 ご譲位後の今上陛下は、上皇となられる。

  その他 敬称は陛下。喪儀及び陵墓は天皇の例による。

(上皇后)

第四条 上皇の后は、上皇后となられる。

   その他 敬称は陛下。皇太后の例による。

(皇太弟)

第五条 第一条が定める皇太子殿下の受禅によって新たに皇位継承第一位となられる皇嗣は、皇室典範第八条が定める皇太子と同じ皇太弟の位を継がれ、東宮となる。

 2 「皇太子」に係る皇室典範の規定はすべて、皇太弟に置き換える。

 3 皇太弟の立太子の礼は、政令で定める。

 

≪参考・引用図書≫

・「国民が知らない上皇の日本史(倉山満)」祥伝社新書

・「日本一やさしい天皇の講座(倉山満)」扶桑社新書

・「徳仁≪新天皇≫陛下は、最後の天皇(中川八洋)」ヒカルランド