戰艦大和は、時代錯誤の存在ではなかった | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 我が國がかつて建造した、大和型戰艦の戰艦「大和」および「武藏」は、世界史上最大最強の戰艦である。戰後になっても、「宇宙戦艦ヤマト」をはじめ、「青の6号」に出てくる潜水戰艦「ヤマトワンダー」など、マンガで復活をとげるほど、大人気の軍艦である。これほど有名な軍艦は、他には類が無いであろう。 しかしながら、大東亞戰爭實戰における大和と武藏の評価は芳しくない。その最大の理由は、大和と武藏は、はかばかしい戰果をあげることなく沈んでしまったことにあろう。確かに、大和と武藏は、数字としては顕著な戰果を残すことなく沈んでしまった。これは事實である。しかし、その悲劇を、そもそも大和と武藏は時代遅れ・時代錯誤の存在であったからだという論調が多いことには、いささか首をかしげざるを得ない。

 確かに、大和と武藏が登場したのは、當の大日本帝國海軍が、真珠湾攻撃や”英国東洋艦隊壊滅の日”で述べたマレー沖海戦にて、戰艦を航空機にて沈め、戰艦中心の大艦巨砲主義から航空機の時代へ、という時代のかわりめを象徴する時代であったことは確かだ。そして、大和と武藏に続くべき大和型戰艦三番艦となるはずだった「信濃」は、空母として建造されてしまった事實もある。しかし、だからと言って、戰艦大和と武藏は、無用の長物であったのか。

 戰史を調べてみると、大和と武藏は、大東亞戰爭中期までは、ろくに活躍の場を与えられなかったのである。例えば、日米が熾烈な消耗戦を戰ったガダルカナル島をめぐる南太平洋方面においては、全く前戰に出なかったのだ。もし、ガダルカナル島の戰いに大和が出ていれば、日本の勝利に終わったであろうということは、アメリカ側も認めるところである。

 大和と武藏がアメリカ空母部隊が搭載する雷撃機の魚雷によって沈んだというのは確かである。しかし、坊ノ岬沖海戰にて戰艦大和を沈めるためにアメリカ軍が使った空母は、大型空母七隻と軽空母四隻に及ぶのである。大和は、決して簡単に沈められたわけではないのだ。空母一隻とその艦載機だけで戰艦大和を沈めることは、不可能であったろう。また、大和を沈めた大型空母七隻が、同数の戰艦であったとしても、大和を沈めることができたのではないか。レイテ沖海戰にて大和よりさらに多数の航空機魚雷を受けて沈んだ武藏についても同様である。つまり、大和や武藏は、時代錯誤の存在ゆえにアメリカ空母から沈められたのではなく、本来活躍できるはずの戰場に出してもらえずに、戰期を逸してしまった結果、圧倒的に戰力差をつけられてしまったアメリカ海軍に惨敗してしまったというのが真實であろう。

 

紀元二六八〇年・令和二年 一月七日