『自伝契約 叢書記号学的実践⑰』 フィリップ・ルジュンヌ
自伝契約 (叢書 記号学的実践)/水声社¥7,560Amazon.co.jp自伝というジャンルは新しいものとされている。アウグスティヌスの『告白』は確かに4世紀末に既に書かれているが、それは自伝というジャンルではなく、宗教的回心文学としてカウントされるようだ。そんなわけで、一般にルソーの『告白』が最初の自伝と見做されている。 しかし自伝というものはどうも捉えがたい。自分のことは自分が一番よく分かるから、もっとも信頼できる伝記なのかというわけでは決してない。むしろ、作家が自分の幼年期を語るという体で、人間の幼年時代という神話を語っていることが往々にしてある。 本書はルソーの『告白』、ジッドの自伝と自伝的小説、サルトルの『言葉』そしてレリスという四人の作家の自伝を個別研究として含んでいる。レリスは読んだことないので(ルーセルの相方)、さっぱり。この本は、当然これらの作家達を熟知していることを前提にしているので、読みたかったら先に四人を読むべきかとも。 そんなわけで、ルソーの章はめちゃくちゃ面白かった。サルトルも、まあ、『言葉』の内容忘れちゃったし。ところで、この叢書・記号学的実践は、ジェラール・ジュネットが半分くらいを占めている叢書。装丁が高揚感をそそる。例によって、何が自伝で、何が自伝でないか、という分類が冒頭に載っている。ここだけでも読んでおいたらよいかも。定義実在の人物が、自分自身の存在について書く散文の回顧的物語で、自分の個人的生涯、特に自分の人格の歴史を強調する場合を言う。政治家が自分が関わってきた歴史について語る「回想録」は個人的な生涯ではないため該当しない。モンテーニュの『エセー』は回顧的でなく(今感じることを書いている)また物語として語られないためアウト。個人的な日記もまた回顧的に物語を作っていないからもちろんアウト。ところで、語り手と主人公の同一性は通常一人称で示される。「私はこれから自分の人生について正直に話します」と宣言してくれれば一番簡単だ。とはいえ、ジュネットがいうように、一人称だからといって語り手と主人公は同一人物でなくても構わない。同様に三人称だからといって語り手と主人公は同一であっても構わない。なんてことをルジュンヌはうだうだと続ける。要するに、冒頭で「これは自伝ですよ」という契約をしていれば基本自伝。契約がない場合、作者と主人公が同一の名前であれば自伝と読まれるべき、ということになる。 自伝契約の対に、小説契約というのがある。フランスの本ではよく、表紙のタイトルの下に「ロマン」って書いたものがある。あれがないと自分が今、自伝を読んでいるのか、歴史書を読んでいるのか、小説を読んでいるのか、検討がつかない場合がままあるからだろう。 そんな小説契約も自伝契約もなく、それでいて主人公の名前が未知であると、途方にくれることになる。例えばプルーストの『失われた時を求めて』は主人公は常に「わたし」としか自称しないし、名前も呼ばれないから困ってしまう。なぜか「わたし=マルセル(プルーストのファーストネーム)」説が流布しているのは、たった一回だけある奇妙な仮定のせいだったようだ。それは「彼女は言葉を取り戻して《私の》《私のいとしい》と言い、その後に私の洗礼名のどちらかが続くのだった。その言い方は、この書物の作者と同じ名前をつければこうなっただろう、《私のマルセル》《私のいとしいマルセル》。」(ぷれいやっど、とーむ3、75ぺーじ)私=マルセル説の「誤り」はこんなとんでもない一文から来ていた。なんなんだよこれ!(作者に帰する他ない言表である。何故なら、架空の語り手がどうして自分の作者の名前を知っているであろうか)、こうして作者が語り手ではないことが私達に告げられるのである。作者のこの奇妙な介入は、小説契約として機能すると同時に、自伝の指標としても機能し、テクストを両義的な空間の中に据えるのである。(35)補足説明すると、作者≠語り手「わたし」=主人公「わたし」であることが明白であるので、これは自伝ではない。その一方で、この書物の主人公が「マルセル・プルースト」であることをも暗示しているため、作者が自分自身について語るという自伝の条件を満たしてしまってもいる。自伝と自伝的小説に関する「神話」もまたルジュンヌの攻撃対象になる。自伝は正直なふりをして自分の都合、関心のままにねじ曲げ、隠蔽された真実を語るため、作者の見せたい自画像しか見せないが、自伝的小説では、作者=登場人物という足かせが外れたため、自伝では隠された、見せたくない真実までもが明らかに描かれる。という「ありきたり」の言説である。 そっか、これありきたりだったのか。したり顔で精神分析とかを援用してさも大発見みたいに発表していると恥ずかしいってことだね。 サルトルが『言葉』の中であれほど残酷に正体を暴いてみせた栄光と不滅に対する欲望は、作者の名前となった固有名詞に丸ごと立脚している。今日、匿名の文学の可能性を考えることが出来るだろうか。(40)「自伝空間」は、18世紀以来、多くの作家達が体験した現実であった。フィクションを通して、自分を投影する、告白する、自分について夢を見る、自分を浄化する、自分を表現する、これが、ルソー以来それぞれの作家が多少なりとも意図的に為し得たことである。自我がもっと単刀直入に明るみに出る日記、告白、エッセーもまた書くことを覚悟の上で。(263)自伝というジャンルは新しい、しかし自伝は昔からあるそれに対するルジュンヌの説明に納得。問題は、芸術史の場合と少しく同一である。「静物画」を絵画の永遠の使命と見做し、装飾的、象徴的な機能を持つ、古代の陶器の表面の図案化された絵柄を、17世紀のオランダの画家達の系統立った制作と同一次元に置くことによって、「静物画」概論を書くことが出来るなどと考える者がいるだろうか。(455)本書の最初と最後が文学論として重要そうなので、必読かもしれない。肝心の四人の作家の個別研究は、知らない作品だとあまり意味ないかも。