映画とは何か(上) (岩波文庫)/岩波書店
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1975年フランスの本。映画批評というのが知的な一つの学問として成立しているんだな、って納得する。映画批評とは言っても、「今週の・・・は、・・・」っていう批評ではなくて、演劇、小説、絵画、それらの各種芸術分野に股がり、あるいは相続し、総合するひとつの芸術分野に関する批評。

アメリカのコメディ映画の流行に中世からの笑劇の復活を見たり、ディドロのいう演劇の「第四の壁」理論が映画でも使われていたり(吉本新喜劇や、ハンナ・モンタナも三面は壁で一面が観客だが、普通、壁ではなく人に向かってしゃべっている感がある、それを、観客ではなく透明な壁だと思って演じるというあれだろう)、要するにとっても知的な批評。相当面白い。

 フランス映画って、いろいろと人に薦められて観ないといけないなと思うのだけど、大抵面倒になって見ない。『泉のマノン』とか、どんだけ長いんだよ(という当然の反応も、もともと4、5時間あるものを映画会社から好い加減にしろと言われて、3時間半くらい、一回休憩のものにしたから、逆に冗長に感じてしまうという事情ある、と著者は言う)、とか『アンダルシアの犬』を見て、・・・小一の時読まされた『おおきなかぶ』っぽかったかな?みたいななんとも言えない気分になることが多い。バザンのこの本を読めば、この映画はこういう点に注意して見ればいいのだな、とか、やっぱりあの映画、良かったけど俳優の演技下手だったよね、とか予習にも復讐にもなる。
 
ジャヴェールやダルタニャンは、いまや小説を脱して神話の一部をなしており、いわば独立したあり方を享受しているのであって、原作の小説はもはやその一時的な、ほとんど余計な表現でしかなくなっている。(137)

たしかに、その通り。三銃士とか、ストーリーは知らないけど、どうせドラえもんとのび太が戦ったあんなんだろ、とか、ジャヴェールって誰か忘れたけど、下水道のなか鬼ごっこするんだよね、とかそういうレベルにまで滲透してしまったキャラクターは、もう小説の支配下から脱した独立したものなんだあな。シャーロックホームズはヤク中じゃねえ、実はタバコも吸っていない、って現代的視点から弁護したり、ワトソン君と同棲していたってのはそういうことだとか勘ぐったり、あたかも実在の人物として語られるレベルは神話化のもっと上なのかな。
 この本の中では、小説の映画可、演劇の映画化について巷に溢れる表層的な説明とは全く異なるちゃんとした考察が行われている。ちなみによく言及されるのがブレッソン、コクトー、パニョルら。


マラルメの白いページやランボーの沈黙が言語の究極の状態であるのと同じように、映像が取り除かれ文学にその場を明け渡したスクリーンは、映画的リアリズムの勝利を示している。白いスクリーン上には、死亡通知状に押された十字架のように不格好な黒い十字架が現れる。それは映像が昇天した後に残された唯一の目に見える痕跡であり、現実がそのしるしにすぎなかった何物かの存在を証し立てている。(208)

究極に格好いい。が、なにを言いたいのかは良く分からない。70年代フランスのよく分からないけどめちゃくちゃかっこいい文章ってこんなんだよね。