こびと
私は小さな子供だった。中学入学時の身長は114cm、高校入学時は124cmしかなかった。生まれてすぐ脳膜炎になり、2歳の時、熱が出て近所の医院で風邪と診断され何週間も熱が下がらず、大阪日赤病院に運ばれたときには既に重度の肺炎で「手遅れ」と言われたらしい。医師や両親は弱っていく私に何か少しでも何か食べさせようと努力したが何も受け付けなかった。ある日、病室にたまたま届けられたみかんを口に入れ、それを機に快方に向かった。
喜んでいる若い両親に医師は「この子はこれから先、永い間喘息で苦しむことになるでしょう。」と宣告した。幼稚園の時、母はいつも私をおぶって池のふちを歩いていた。夜中になると必ずぜんそくの発作が起き、池の向こう側の池田医院に連れて行き、お医者さんに起きてもらって、酸素吸入を受けさせる。その繰り返しだった。しかも朝方のなるとまた発作を起こすのだ。たまらない。母はふとふと池を眺めながら通った。小学校低学年になっても100cmにも満たない小人のような私をホルモン治療するよう医師は勧めた。医師や母はいじめを心配したのだろう。それを訊いた子供の私は、自分の体が変身させられると思い、頑なに医師に断った。
元気な時 私はいつも一人で絵を描いていた。豊中市にあった団地の周りの空き地にいるいろいろな虫の絵を描くのが特に好きだった。どんな虫の名前でも覚えた。草っ原のバッタやてんとう虫やあらゆる虫では足りず、水に入り池の中の虫も描いた。ゲンゴロウ、タガメ・・。小学校3年の時、東京の杉並区に転校になった。原っぱはなくなった。私はひとりでスケッチブックを持って上野の森にある国立美術館や東京美術館などに通うようになった。
レオナルドダビィンチの虜になり、博物館で売っている画集を真っ黒になるまで何回も写したり、発明に興奮し、伝記を全て読んだ。彼とともに空を飛ぶことにあこがれ、左利きなのを誇りに思い、さかさまに字を書いた。モナリザが来日したときは長い列の人ゴミの中で小さい自分は見えず、整理用のロープをくぐって近くで40分も見つめ続けた。
ゴッホの真似をして自分の顔を描き、それからしばらくすると今度はミレー、コロー、クルーべなどの風景画に魅せられるようになった。
上野の森のなかにある美術館は毎週私に興奮を与えてくれる公園!だった。上野美術館の食堂のおばさんは優しかった。出口で画集やはがきを買うために、いつもやせがまんして100円ライスだけを注文する私に「はい、ごちそう。」とにっこり笑って色々な漬物を持ってきてくれたり、コロッケやカレーをかけてくれたたりした。一方、小学校での私はマイペースで人の目や身なりを全く気にしない子供だった。たくさん穴のあいたカーボーイ用ベルトをひざ下まで垂らし、シャツは必ずズボンのうしろからペロンと出ていた。ひざは穴が空き丸いあて布が縫い付けられていた。清潔とは女の言葉だと持論を友達にいい、母親にどんなに咎められても毎日同じ格好で学校に行った。発作が起きていないときはいつも友達とふざけあっていた。
近所の公園で野球しているときに拾った卵そっくりの黒い石を「命の石」と名付け、ポケットに入れ時々出しては一人で磨き、肌身離さず持ち歩いていた。そのためその重みでズボンの左側はいつもずれ落ちぎみだった。
私がのちに中学生になり、家族から離れ九州に預けられることになったとき、自分の「分身」としてこの命の石を弟の部屋にこっそり残した。自分は田舎に行くけど魂はこっちに残るようにと。しかし、次の夏休みに帰ってきたとき弟の部屋は片付き、「命の石」は無くなっていた。
東京に転校してからは発作が起きても母が私をおぶって病院に行くことは無くなった。夜中に発作が起き、痰を出し気道を確保するため。背中をさすったり、叩いたりしながら母はしきりに私に「喘息は病気ではない。気持ちの病気。病は気から。」というようになった。
そしてどんなに夜中発作が起きても、朝になると「さあ、学校へ行きなさい。」と言われた。私も学校を休めるのは風邪で熱が出たときといつか盲腸になった時だけだと思いこまされた。
「回りの空気を吸うことも吐くこともできない。」回りの人なんでもないのに何故?
ぜいぜい、ひゅーひゅーと通学路を歩きながら同級生と遭遇したり「どうしたんだ。ぼうや。」と通行人に声を掛けられるのが恥ずかしく、私は電柱の陰や道から外れた腰掛けれるものがあるところを目標にしながら腰掛け「命の石」見つめ、語りかけ、呼吸が落ち着くのを気長に待った。

小学校への一番の難関は歩道橋だった。
数段上がっては固まっている私に何か言いそうになる通行人に「大丈夫です」とにこっと答え、また呼吸整え、不思議そうに横眼で見て行く人には静かに視界から消えるのを待った。普通は10分で着く小学校に休み休み2時間ぐらいかかって通った。どんなに早く家を出ても遅刻と苦しさとの時間競争だった。
そうしてようやく頂上=校舎にたどり着くと入る前に呼吸を十分整え、音が洩れないように必死にこらえながら教室の席についた。
私は喘息=恥ということを母に叩き込まれた。自分の異常な気道音を他人に聞かれてはいけなかった。
それでも小学校の時のぜんそくは母の言うとおり、学校に行き、友達と一緒にいると帰りにはケロッと治ることが多かった。のちにこのころ、喘息発作止めの吸入器の使用のため心臓発作を起こし死ぬ子が世界中で何例か発生し喘息の治療法として問題視する意見があったことを知った。
母は私を死なせたくなかったのだろう。喘息は公害病の代名詞だった。しかし当時の東京の風物詩 光化学スモッグ注意報は私のぜんそくには全く関係なかった。喘息は雨の降る前々日ぐらいから発生し、梅雨はほぼ毎日、発作気味だった。しかし快晴の日や空気が乾燥する冬の間はむしろ普通の子供の何倍も元気だった。絵を描いていない時間以外はいつも大勢の友達といた。私はどこでもとにかくよく走った。そしてそのまま階段から転げ落ちた。小学校を卒業するまでに計15針頭のあちこちを縫った。そのころ国鉄中央線はよくストライキをした。
電車に気をつけながら、新宿までの線路を歩くことは僕ら仲間の冒険であった。スタンドバイミーの世界だった。小学6年になり私はまた大阪に転校になった。小学校で既に3回目の引っ越しだった。私は上野の森に通うことができなくなった。そのかわり私には関西に来てどうしても見たいものがあった。当時、高松塚で壁画が発見され、飛鳥ブームが起きていた。
私は奈良県の`飛鳥村`という場所を本屋で調べ、電車を乗り継いで出かけて行った。
そこにその後、一生続く出会いが待っているとも知らずに。
喜んでいる若い両親に医師は「この子はこれから先、永い間喘息で苦しむことになるでしょう。」と宣告した。幼稚園の時、母はいつも私をおぶって池のふちを歩いていた。夜中になると必ずぜんそくの発作が起き、池の向こう側の池田医院に連れて行き、お医者さんに起きてもらって、酸素吸入を受けさせる。その繰り返しだった。しかも朝方のなるとまた発作を起こすのだ。たまらない。母はふとふと池を眺めながら通った。小学校低学年になっても100cmにも満たない小人のような私をホルモン治療するよう医師は勧めた。医師や母はいじめを心配したのだろう。それを訊いた子供の私は、自分の体が変身させられると思い、頑なに医師に断った。
元気な時 私はいつも一人で絵を描いていた。豊中市にあった団地の周りの空き地にいるいろいろな虫の絵を描くのが特に好きだった。どんな虫の名前でも覚えた。草っ原のバッタやてんとう虫やあらゆる虫では足りず、水に入り池の中の虫も描いた。ゲンゴロウ、タガメ・・。小学校3年の時、東京の杉並区に転校になった。原っぱはなくなった。私はひとりでスケッチブックを持って上野の森にある国立美術館や東京美術館などに通うようになった。
レオナルドダビィンチの虜になり、博物館で売っている画集を真っ黒になるまで何回も写したり、発明に興奮し、伝記を全て読んだ。彼とともに空を飛ぶことにあこがれ、左利きなのを誇りに思い、さかさまに字を書いた。モナリザが来日したときは長い列の人ゴミの中で小さい自分は見えず、整理用のロープをくぐって近くで40分も見つめ続けた。
ゴッホの真似をして自分の顔を描き、それからしばらくすると今度はミレー、コロー、クルーべなどの風景画に魅せられるようになった。
上野の森のなかにある美術館は毎週私に興奮を与えてくれる公園!だった。上野美術館の食堂のおばさんは優しかった。出口で画集やはがきを買うために、いつもやせがまんして100円ライスだけを注文する私に「はい、ごちそう。」とにっこり笑って色々な漬物を持ってきてくれたり、コロッケやカレーをかけてくれたたりした。一方、小学校での私はマイペースで人の目や身なりを全く気にしない子供だった。たくさん穴のあいたカーボーイ用ベルトをひざ下まで垂らし、シャツは必ずズボンのうしろからペロンと出ていた。ひざは穴が空き丸いあて布が縫い付けられていた。清潔とは女の言葉だと持論を友達にいい、母親にどんなに咎められても毎日同じ格好で学校に行った。発作が起きていないときはいつも友達とふざけあっていた。近所の公園で野球しているときに拾った卵そっくりの黒い石を「命の石」と名付け、ポケットに入れ時々出しては一人で磨き、肌身離さず持ち歩いていた。そのためその重みでズボンの左側はいつもずれ落ちぎみだった。
私がのちに中学生になり、家族から離れ九州に預けられることになったとき、自分の「分身」としてこの命の石を弟の部屋にこっそり残した。自分は田舎に行くけど魂はこっちに残るようにと。しかし、次の夏休みに帰ってきたとき弟の部屋は片付き、「命の石」は無くなっていた。
東京に転校してからは発作が起きても母が私をおぶって病院に行くことは無くなった。夜中に発作が起き、痰を出し気道を確保するため。背中をさすったり、叩いたりしながら母はしきりに私に「喘息は病気ではない。気持ちの病気。病は気から。」というようになった。
そしてどんなに夜中発作が起きても、朝になると「さあ、学校へ行きなさい。」と言われた。私も学校を休めるのは風邪で熱が出たときといつか盲腸になった時だけだと思いこまされた。
「回りの空気を吸うことも吐くこともできない。」回りの人なんでもないのに何故?
ぜいぜい、ひゅーひゅーと通学路を歩きながら同級生と遭遇したり「どうしたんだ。ぼうや。」と通行人に声を掛けられるのが恥ずかしく、私は電柱の陰や道から外れた腰掛けれるものがあるところを目標にしながら腰掛け「命の石」見つめ、語りかけ、呼吸が落ち着くのを気長に待った。


小学校への一番の難関は歩道橋だった。数段上がっては固まっている私に何か言いそうになる通行人に「大丈夫です」とにこっと答え、また呼吸整え、不思議そうに横眼で見て行く人には静かに視界から消えるのを待った。普通は10分で着く小学校に休み休み2時間ぐらいかかって通った。どんなに早く家を出ても遅刻と苦しさとの時間競争だった。
そうしてようやく頂上=校舎にたどり着くと入る前に呼吸を十分整え、音が洩れないように必死にこらえながら教室の席についた。
私は喘息=恥ということを母に叩き込まれた。自分の異常な気道音を他人に聞かれてはいけなかった。
それでも小学校の時のぜんそくは母の言うとおり、学校に行き、友達と一緒にいると帰りにはケロッと治ることが多かった。のちにこのころ、喘息発作止めの吸入器の使用のため心臓発作を起こし死ぬ子が世界中で何例か発生し喘息の治療法として問題視する意見があったことを知った。
母は私を死なせたくなかったのだろう。喘息は公害病の代名詞だった。しかし当時の東京の風物詩 光化学スモッグ注意報は私のぜんそくには全く関係なかった。喘息は雨の降る前々日ぐらいから発生し、梅雨はほぼ毎日、発作気味だった。しかし快晴の日や空気が乾燥する冬の間はむしろ普通の子供の何倍も元気だった。絵を描いていない時間以外はいつも大勢の友達といた。私はどこでもとにかくよく走った。そしてそのまま階段から転げ落ちた。小学校を卒業するまでに計15針頭のあちこちを縫った。そのころ国鉄中央線はよくストライキをした。
電車に気をつけながら、新宿までの線路を歩くことは僕ら仲間の冒険であった。スタンドバイミーの世界だった。小学6年になり私はまた大阪に転校になった。小学校で既に3回目の引っ越しだった。私は上野の森に通うことができなくなった。そのかわり私には関西に来てどうしても見たいものがあった。当時、高松塚で壁画が発見され、飛鳥ブームが起きていた。私は奈良県の`飛鳥村`という場所を本屋で調べ、電車を乗り継いで出かけて行った。
そこにその後、一生続く出会いが待っているとも知らずに。
飛鳥村
`飛鳥というのは奈良県橿原市南部にある耳成山、畝傍山、天の香具山の大和三山に囲まれた田園地帯で藤原京があったといわれる場所である。飛鳥村という名前の駅も明日香という駅も奈良県にはない。近鉄線の橿原神宮前というのが最寄り駅である。
小学校6年の2学期、東京から大阪寝屋川市に転校になった私は京阪電車などを乗り継ぎすぐにここに降りた。駅前にはレンタサイクル屋が数件あった。小さな私はペダルに足が届くように一番低く調整してもらって(それでも半回転分しかペダルに足が付かなかったが)飛鳥村の史跡やお寺が記載された1枚のマップをもらい飛鳥に向かった。私は都会っ子だった。田園の中を自転車を風を切って漕ぎ出すということだけで少し興奮した。夏休みに義務的に親に連れられ行っていた遠い九州の田んぼは、熱く、ギラギラ目が痛い、いちめんの水たまりにすぎなかった。正月の実家の前の田んぼはとげのように穂のきりかぶが無数にある虫もいない固いむき出しの土色の広がりにすぎなかった。このように黄金の稲穂が頭を垂れたり、収穫された穂が三角帽のように田圃のあちこちに並んでいる光景自体 初めてだった。上野の美術館でいつも憧れて見ていたまさにミレーやコローの世界だった。その絵のなかに私はいた。
一見すればただの田園である。しかし、目を凝らばそこらに史跡が存在した。猿石。二面石。酒船石。石舞台・・・・
私は時を忘れた。異次元の金色に輝く光景とその中で見つける宝探し。興奮はスーパーマリオの比ではなかった。大人には小さい、そして小さな私にはとても大きなこの村に夢中になった。
ここで私ははじめて仏像を見た。飛鳥寺の飛鳥大仏だった。
イースター島で発見されたモアイを黒人にしたような顔。目だけがとても大きい。標高たった148mの甘樫丘に自転車を押してあがって、見る稲穂が夕日に輝くころ飛鳥村は、TDLのショー。私はいつまでも飛鳥村に居たかった。
(私にとっての田舎はここだ。)
私は小学校にクリアファィルに蘇我入鹿の首塚の写真を入れ下敷きにして持って行き、授業中もそれを見つめていた。
そんな生徒はほかにいなかった。小学校高学年になるとほとんどの喘息の子供は自然に完治し発作を起こさなくなる。小児喘息と言われる成長期の病気である。
しかし私は気管支ぜんそくだった。私の喘息はひどかった。重篤の肺炎から生き残ったことが罪であるかのように。転校しても私はあいかわらず発作を起こし続けていた。明け方から朝にかけて、ぜぃぜぃ、ひゅーひゅーという狭い気道から息を出すときに出る喘声音は団地の隣近所や道路にまで届きかねないほどひどく大きく、母は疲れ、そしてヒステリーを呈しはじめていた。
「その音なんとかなんないの。近所迷惑じゃない。音が出ないように呼吸しなさい。」
「服を着なさいって言っていたのに風邪ひいたあんたが悪いのよ。だから苦しむの。わかった。全部、日頃のあんたがわるいのよ。」母は自分の苛立ちを発作中の私にぶつけた。やはり小児喘息ではなかったこと。成長が止まったままわが子。医師の言った言葉が母にしっかり根付いていた。発作止めの吸入器を使うとわが子を殺してしまうかも知れないという怖れ。そして激しい病状は 風邪をこじらせているだけ と自分を理解させ、そしてそう思い込むようになった。発作のあいだ中、私の元気な時間の行動をいちいちあげて罵倒し続けた。私は発作が治ると家から逃げた。中学に入ってからも私はただ絵ばかり描いていた。学校はただ美術室との往復だった。
授業には全く関心がなかった。飛鳥寺を訪れて以来、私は寺のスケッチに興味を持ちはじめた。田園と寺の風景が脳裏から離れなくなった。
ある日、また飛鳥村を訪れていたとき、岡寺で33カ所のお寺を遍路すれば願いが叶うという「西国三十三か所霊場札所巡り」を知った。霊場は、北は丹後半島から南は紀伊半島まで、当時は交通の便も殆どないような寺もあった。スケッチの帰りに京都駅の交通公社にたずねに行くと「中高生でも回った人は聞いたことがないし、子供ひとりでは危ないから近くのお寺のお祈りで充分。」と揶揄された。しかも私の外見はどう見ても小学低学年だった。バスのつり革すらはるかに掴めないのにどうやって近畿中を旅するのかという目で見られた。私は回り始めた。スケッチブックと'納経帳を持って・・
小学校6年の2学期、東京から大阪寝屋川市に転校になった私は京阪電車などを乗り継ぎすぐにここに降りた。駅前にはレンタサイクル屋が数件あった。小さな私はペダルに足が届くように一番低く調整してもらって(それでも半回転分しかペダルに足が付かなかったが)飛鳥村の史跡やお寺が記載された1枚のマップをもらい飛鳥に向かった。私は都会っ子だった。田園の中を自転車を風を切って漕ぎ出すということだけで少し興奮した。夏休みに義務的に親に連れられ行っていた遠い九州の田んぼは、熱く、ギラギラ目が痛い、いちめんの水たまりにすぎなかった。正月の実家の前の田んぼはとげのように穂のきりかぶが無数にある虫もいない固いむき出しの土色の広がりにすぎなかった。このように黄金の稲穂が頭を垂れたり、収穫された穂が三角帽のように田圃のあちこちに並んでいる光景自体 初めてだった。上野の美術館でいつも憧れて見ていたまさにミレーやコローの世界だった。その絵のなかに私はいた。
一見すればただの田園である。しかし、目を凝らばそこらに史跡が存在した。猿石。二面石。酒船石。石舞台・・・・
私は時を忘れた。異次元の金色に輝く光景とその中で見つける宝探し。興奮はスーパーマリオの比ではなかった。大人には小さい、そして小さな私にはとても大きなこの村に夢中になった。ここで私ははじめて仏像を見た。飛鳥寺の飛鳥大仏だった。
イースター島で発見されたモアイを黒人にしたような顔。目だけがとても大きい。標高たった148mの甘樫丘に自転車を押してあがって、見る稲穂が夕日に輝くころ飛鳥村は、TDLのショー。私はいつまでも飛鳥村に居たかった。(私にとっての田舎はここだ。)
私は小学校にクリアファィルに蘇我入鹿の首塚の写真を入れ下敷きにして持って行き、授業中もそれを見つめていた。

そんな生徒はほかにいなかった。小学校高学年になるとほとんどの喘息の子供は自然に完治し発作を起こさなくなる。小児喘息と言われる成長期の病気である。しかし私は気管支ぜんそくだった。私の喘息はひどかった。重篤の肺炎から生き残ったことが罪であるかのように。転校しても私はあいかわらず発作を起こし続けていた。明け方から朝にかけて、ぜぃぜぃ、ひゅーひゅーという狭い気道から息を出すときに出る喘声音は団地の隣近所や道路にまで届きかねないほどひどく大きく、母は疲れ、そしてヒステリーを呈しはじめていた。
「その音なんとかなんないの。近所迷惑じゃない。音が出ないように呼吸しなさい。」
「服を着なさいって言っていたのに風邪ひいたあんたが悪いのよ。だから苦しむの。わかった。全部、日頃のあんたがわるいのよ。」母は自分の苛立ちを発作中の私にぶつけた。やはり小児喘息ではなかったこと。成長が止まったままわが子。医師の言った言葉が母にしっかり根付いていた。発作止めの吸入器を使うとわが子を殺してしまうかも知れないという怖れ。そして激しい病状は 風邪をこじらせているだけ と自分を理解させ、そしてそう思い込むようになった。発作のあいだ中、私の元気な時間の行動をいちいちあげて罵倒し続けた。私は発作が治ると家から逃げた。中学に入ってからも私はただ絵ばかり描いていた。学校はただ美術室との往復だった。
授業には全く関心がなかった。飛鳥寺を訪れて以来、私は寺のスケッチに興味を持ちはじめた。田園と寺の風景が脳裏から離れなくなった。ある日、また飛鳥村を訪れていたとき、岡寺で33カ所のお寺を遍路すれば願いが叶うという「西国三十三か所霊場札所巡り」を知った。霊場は、北は丹後半島から南は紀伊半島まで、当時は交通の便も殆どないような寺もあった。スケッチの帰りに京都駅の交通公社にたずねに行くと「中高生でも回った人は聞いたことがないし、子供ひとりでは危ないから近くのお寺のお祈りで充分。」と揶揄された。しかも私の外見はどう見ても小学低学年だった。バスのつり革すらはるかに掴めないのにどうやって近畿中を旅するのかという目で見られた。私は回り始めた。スケッチブックと'納経帳を持って・・
小学生の巡礼
西国三十三か所巡礼の第一札所は那智熊野 本州最南端串本町の山間にある。・・紀三井寺。粉河寺。丹後半島成相寺。琵琶湖に浮かぶ竹生島 宝厳寺・・・・。
私は遠方の寺から巡礼した。
「えらいねー。誰と来たの?おじいちゃん?」一番の反応だ。他も似たようなものだった。一緒なのが`おばあちゃんであったり`親であったりするだけだ。つまり、こども一人が西国33カ所札所の巡礼しているとは考えないのだろう。私がひとりだと言うと「へぇー。ひとり。ほんまに?」「偉いねー」と短い単語がしばらく続く。そのあと、他の小さな子供が一人で来ていることを吹聴したり、「ちょっと待っててや。ぼうや。」と言いながら飴などをくれる僧侶もいた。私はこの髪のない人種と話すが少し怖かったし、「何処から来たか」かとかお決まりの質問を受けるのが、面倒くさかった。願いが叶うという33寺を早く回ってしまえば良かった。~~~~~~堂全体~~~から発する読経の音、香の匂い、がなんとなく苦手だった。それによってこの遠方の地でアレルギーが起きるのが怖かった。子供の自分としては堂の外に大きな「鐘」があればそれを上手く鳴らせれば満足だった。しかし、朱印というのを有料で貰わないと札所を巡礼したことにならないらしい。「天から見ているのになぜ証拠がいるのだろう。」と子供心に不思議だったが、それを僧侶に訊ねたことはなかった。百円玉がもったいないと思っていることをこの`神様に仕える髪のない人達`に見透かされたくなかった。そのお金でジュースを買ったほうが得だと思っていることも。また、それを聞けないぐらい、朱印と共に納経帳に描かれる寺名のお坊さんが書く字は「りっぱ」だった。
私がもし右利きだったら書道家を憧れたかもしれない。そこに寺の名前が描かれているのだと分かっていても読めないのだ。当時の小学校高学年には国語の時間のうち週一回、書道の時間があった。私は左利き(ぎっちょ)だったのでいつも年功の書道の先生に怒られた。「大隈。右で書け。おまえが書いているのは書道じゃない。ただの絵じゃ!」私は左手に筆を持ち、右から左に、上から下に、またはななめに。まっすぐ字を引いた。そのため、止めやはねがまったくないただの墨汁でかいた線だった。その線にあとからはねや止めの形を見本の字を見ながら`描いた`つまり付け足して、加筆し、見本そっくりの字を`作っていた。それを怒っているのだ。私は自分の右手を背後から先生に握られ「こうして・・・こう・・・ここで止めて・・こう」と書道を書かされた。「上手に書けるじゃないか。大隈。」先生は満足そうだが、私の右手は強く握られているだけで書いたのは先生だから当たり前だった。
ある時、私の`書道の字が学年の優秀作品のひとつとして体育館に飾られたことがあった。それは宿題で提出したもので家で`描いた`ものだった。それ以来、私は書道というものをあまり信じなくなった。
この納経帳に書かれる字はむしろ`絵だった。
私はいつの間にか中学生になっていった。そして私の巡礼は第16番札所 清水寺
で突然ペースダウンした。私はスケッチブックを持って、この寺に通い始めた。
清水寺舞台の下に小さな3本の滝が落ちている場所があり、その近くに茶屋があった。沖田総司が医者の娘に初恋したという場所だ。
その近くの人気のない石の上に私は通い始めた。通常、清水寺を写真に撮ったり、絵を描こうとする人は絵ハガキにあるように舞台先のL字型になっている奥の院と言われる小さな舞台から本舞台を描くか清水寺を向い側から見渡せる子安の山から全景を撮影したり写生するのが普通だった。私は清水寺の舞台そのものを作っている土台の巨大な組み木に興味を持った。できるだけそれに近づき、見上げ、組み木の仕方、一本一本の木の傷にいたるまで正確に写生した。
参道から少し奥まった、この石のまわりは次第に人が多くなっていった。私の背後には常に何人もの人が私がスケッチするのを覗き込み、何か感嘆したり、話題にしたり、話しかけてきたり、ずっと見ている人がいたり、この広い境内のなかのひとつの観光所のようになった。私は巡礼を続けながら、京都にある私の興味がそそられる寺院をスケッチし始めた。油絵道具は持っていかなかった。納経帳を持って巡礼も続けていたので油の匂いが大切な納経帳に移るのが怖かった。
ラッションペンひとつで描いた。金閣寺では、ぞろぞろと日本人の学生や背広姿の列を従えた恰幅の良い中年の西洋人が私が絵を描いているのを見ながら、しきりに回りに何か解説している。と思うと私に向かって「スバラシイ!」と日本語でしゃべった。通訳と思われる若い金髪の女性が「この先生は世界的にとても有名な画家の先生で今、来日されているんです。先生はぜひあなたを自分の国イタリアに招きたいとおっしゃています。もしあなたがよろしければご両親にお話することも可能です。この先生がこんなことをおっしゃるのは初めてです。どうですか。チャンスですよ。」後半は通訳というよりも、このひとが興奮していた。私は下を向いたままだった。
その紳士は連絡先を秘書に渡して、私にくれた。私は見たふりをしてポケットに入れ、また絵を描き始めた。金閣寺の屋根は雲の位置、風などにより5分おきに表情が変わってしまうのだ。私ははやくこの集団に過ぎ去ってほしかった。なのに彼は翌週もまた私を誘いにやってきた。有名人がそんなに暇なのだろうか。今度は連れているのも秘書と2人だけだった。私は両親に断られたと言った。嘘だった。先週ポケットに突っ込み、絵を描き始めたときから忘れてしまっていただけだった。秘書は「本当に残念ね。」と`私に同情した。私が泣いて親に懇願した図を想像しているのだろう。私は清水寺のときからマジックひとつで光と影、濃淡すべての色を描いて絵を仕上げていった。法然院。南禅寺。・・・「描き上がったら買いたいので売ってほしい。」という人や、寺に残してほしいという職員らしき人もいた。そういえば清水寺の茶屋の人からはたまにお菓子やお茶を貰っていたのに、「完成したらほしい。」というのを断って心苦しかった。私は注目されるのが苦手だった。絵をあげて、またお願されるのを怖れた。私は巡礼も続けなければならなかった。
中学2年。私の巡礼は奈良を残すばかりとなっていた。「満願」とは札所33カ所すべてを回って初めてかなえられるもので、途中では全く効果がないらしい。中学に入っても私のぜんそくは良くなるどころか、一回の発作の激しさが強くなっていた。小学校の時のように学校な行けば治るということも少なくなってきた。「一週間喘息」というのが始まったのもこのころからだった。本来、明け方に発作が最も激しく、日中は緩和するのだが、夜中に発生した呼吸困難がずっと続くのである。病院に行って発作を止めても家に帰り着くころは再び息苦しくなり始めていた。長い夜の始まりである。ひゅーひゅーひゅーひゅぜーぜー。社宅で近所にまで聞こえるほどの喘鳴音。2歳のときの医師の言葉は分かっていた。しかし、回りの小児ぜんそくの子供はみな完治していくのに、唯一悪化するわが子。中学2年になろうというのに120cmにも満たない低学年のような身長。苛立ちは私に向かった。風邪をこじらせたと思いこもうとした。
「だいたいあんたが薄着で外を走り回っとったけんいかんのよ、自業自得ばい。苦しみなさい。そうすれば今度こそ薄着しなくなるでしょう。」母親は興奮すると九州弁になる。母はもうどんなに痰が絡んでも背中を叩いてくれることはなかった。これは`風邪`を悪化させた息子が悪いのであり、この子は苦しまなきゃ同じ過ちを繰り返す。彼女は現在でいう`うつの状態に陥っていたのかもしれない。尚、悪いことに私は自我が目覚めていた。反抗期だった。小学校の時のように母のぐちを黙っていられなかった。
「ぜぃ ぜっ喘息は 風邪じゃない。ぜぇぜぇ ぴゅー ぴゅー ぜんそくという病気だよ。ぜぃぜぃぜぜぃ。いい加減、僕の ぜぃぜぃぜぃ 普通の時の ぜぃぜぃ 行動のせいにするのは ぜぃぜぃぜぃ やめて。関係ないんや。ぜぃぜぃぜぃ」
「現にこうして発作起ことるとがしょうこやろうが。くやしかったら普通に呼吸してみんね。」
私はこの母親の言葉のストレスでなおいっそう興奮し、発作を悪化させた。げほっ げほっ ごっほ ごっほ ひー ひー。
「うるさかねー。ほんなこて。音させんで呼吸できんとね。まったく。普段あれほど薄着しちゃいかんってゆうとったのに。なんで薄着はするとやろうね。こん子は。まったく。」と一通り、私の部屋にきて私の発作を悪化させると台所の方へ消えていく。私は悔しかった。元気なときに一刻も早く33カ所回ってしまうことだけを考えた。母も疲弊していた。どんなに発作が止められるとわかっていても頑なに吸入器を使用することをためらった。「吸入器で死亡者が出た。」という昔聞いた医師の一言が呪縛となり彼女から離れなかったのだ。吸入器とは癌の末期にしか与えないモルヒネと受け取り、厄介なものとして家の奥にただ隠した。古くから白木村の長者で戦後は町長の大きな良家、女5人男1人の女系兄弟の末娘として、周囲に大切に育てられた母には初めての子供として私は荷が重すぎた。私は「親がうざったい。」とかいう他人の反抗期が理解できない。私はただ呼吸がしたかった。母はそれ自体を否定した。それが反抗期だった。私の家庭は私が発作を起こすと母がヒステリーを起こし、私に言葉の暴力をぶつけ、私は咳込みながら応戦し、なお発作を悪化させるという悪循環に陥っていた。見かねて父は私の学校が夏休みなどになるたびに大阪市立病院などの入院教室を捜してきては私を預けた。私のいない家庭は静かで平和だった。父はさらに平和が維持される方法を見つけてきた。
それは私を福岡のおばの家に預けるということだった。私には青天の霹靂だった。私にも言い分はあった。身体は小さくても声が大きいと体育祭の応援団長に選ばれたのに・・。母は黙っていた。遠くの札所は回り終わっていた。あと奈良の4寺で終わりのはずだった。
私の喘息治癒の満願成就はかなわなかった。